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嘉手納町の概要

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嘉手納町は、沖縄本島の中部に位置し、東シナ海に面する海岸線沿いにあって、那覇市から北へ約23キロメートルの地点にある。北は比謝川を境に読谷村に、南東部は嘉手納飛行場内で北谷町、沖縄市と境界を接している。

面積は、15.12平方キロメートルで南北に約8キロメートル、東西においては、北の方で約2キロメートル、南の端では約5キロメートルの南北に細長い逆L字型になっており、町域を流れる比謝川は、沖縄市に源を発し、東シナ海へ注ぐ本島最大の流域面積を有する河川であり、流水量も豊富で2級河川の指定を受けている。

嘉手納町は戦前、北谷町の一行政区域で、沖縄本島のほぼ中間という地理的条件に恵まれていたため、県営鉄道嘉手納線が運行する陸交通路の要衝にあって県立農林学校をはじめ、青年師範学校、警察署、沖縄製糖株式会社嘉手納工場等が所在し、中頭郡における教育、文化、経済の中心地としての役割を果たしていた。沖縄八景に数えられた風光明媚な比謝川には、県下各地から汽帆船が比謝橋付近まで出入りし、中頭郡における集散地としても盛んなところで、人、自然、産業の調和のとれた町として発展を遂げてきた。

しかし、昭和19年日本陸軍沖縄中飛行場が建設されたこともあって、第2次大戦における米軍の沖縄本島最初の上陸地点となり、その集中砲火はし烈を極め、住居をはじめ、生産施設や貴重な文化遺産のすべてを破壊され、文字どおり焦土と化し、昭和20年8月15日の終戦を迎えるに至った。

戦後は、昭和23年4月頃まで、嘉手納飛行場内の部分的通行が可能であったが、その後、米軍の飛行場管理が強化され、全面的に通行立入が禁止されたため、村域が完全に二分された。このため、昭和23年12月4日付けで分離独立し「嘉手納村」としての第一歩を踏み出した。ところが、分村まもない昭和25年、朝鮮戦争の勃発によって米軍は嘉手納飛行場を「極東最大の空軍基地」として重要視し、遂年整備拡張され、昭和42年には4000メートル級の2本の滑走路を完成させ、実に町面積の82パ-セントにのぼる膨大な面積が同飛行場や嘉手納弾薬庫地区として接収され、住民は残された18パーセントのわずかな土地での生活を余儀なくされた。このため地域活性化の主柱となる生産活動の基盤整備やまちづくりなど大きな制約を受け、恒常的に発生する航空機騒音等もあって町の衰退の要因となり、「基地の島、沖縄の縮図」といわれてきた。

本町では、広大な米軍基地の所在による閉塞感を緩和し、町の活性化を促進するため、沖縄米軍基地所在市町村活性化特別事業、通称「島田懇談会事業」により、総事業費218億円余をかけてタウンセンター開発事業、マルチメディア関連企業誘致事業、総合再生事業を実施し、平成20年3月に完成した。

第3次総合計画に引き続き、平成21年度を初年度とする第4次嘉手納町総合計画を策定し、「支え合い」「人づくり」「安心」「賑わい」の4つの理念を基軸に置き、町民との協働を前提に、誰もが安全で安心して暮らせる環境づくりを目指して、まちの将来像「ひと、みらい輝く交流のまちかでな」の実現に向けたまちづくりを進めている。