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琉球産業の三大恩人

野國總管(のぐにそうかん)は、嘉手納町の野國の出身で、尚寧王時代に首里王府の進貢船(貿易船)の總管役を勤めた人である。
總管とういう役職は進貢船の中で事務を管理したり、航海の安全を祈ったりする事務長のことだと言われ、總管の本名はわかっていない。
沖縄と中国との正式な国交は1372年(文中1年)に始まり、1872年まで続いた。1605年(慶長10年)に中国福建省福州より甘藷の苗を鉢植えにして持ち帰り、郷里の野國村で栽培した。

これをさらに真志喜間切垣花村の儀間真常が野國總管より栽培法を習い、約15年後には沖縄全島に普及した。1615年(元和元年)にウィリアムアダムス(三浦按針)によって、那覇から長崎の平戸へ伝えられそれをリチャードコックスが北九州一帯に広めた。その後1705年(宝永2年)に薩摩の前田利右衛門により、沖縄から薩摩に伝えられ、唐藷と呼ばれた。更に1735年(享保20年)に青木昆陽によって甘藷の栽培が関東以南に広がり、薩摩藷と呼ばれるようになった。野國總管は俗に「ウム大主」と呼ばれて尊敬され、産業の恩人として県民や町民から親しまれている。

 
初めて見る甘藷(かんしょ)に驚く野國總管 甘藷(かんしょ)を皆に説明する野國總管
 
野國總管之像01 野國總管之像02
 
野 國 總 管 宮 野 國 總 管 御 墓