
「マチュー マチューはおらぬか。」
領主(りょうしゅ)のただならぬ声におどろいたジニン頭(かしら)は、いつもと同じように机(つくえ)にかじりついているマツーをひきつれて、領主(りょうしゅ)の前にすすみでました。
「あいかわらず、勉強にうちこんでいたようじゃな。」
領主(りょうしゅ)は、先ほどのただならぬようすとはうってかわって、にこにこしながらマチューにいいました。
「はい、領主(りょうしゅ)さまにお教(おし)えいただいた中国(ちゅうごく)の学問(がくもん)は、学べば学ぶほどわからぬことばかりです。また、中国(ちゅうごく)のことばも、わたしのような百姓(ひゃくしょう)でのものには、むずかしすぎて骨(ほね)がおれます。」
マチューの気まじめな態度(たいど)に、領主(りょうしゅ)の顔もふっとなごみました。
「うん、そうであろう。学問(がくもん)をおさめるということは、なみたいていのことではあるまい。根気(こんき)強くやることがかんじんじやがところでマチュー、そなたによいしらせがある。きょうから久米村(くめむら)で学んでもよいというお許(ゆる)しがでた。これは、ぼうがいなことじや。しっかり学ぶがよい。」
マチューは、ぼうぜんとしたまま、やさしくほほえむ領主(りょうしゅ)の顔に見いっていました。いっしょにひかえていたジニン頭(かしら)の、
「こらマチュー、領主(りょうしゅ)さまの心よりのとりはからい、お礼(れい)をもうしあげねば。」
ということばにうながされて、やっと我(われ)にかえり、深々(ふかぶか)と頭をさげ感謝(かんしゃ)しました。
「ああ、久米村(くめむら)で学べる!」
そう思うだけで、これまでの苦労(くろう)もけしとんでしまうのでした。久米村(くめむら)で学ぶようになったマチューの学問(がくもん)にうちこむすがたは、はたから見てもこわくなるほどでした。マチューの部屋(へや)の灯(ひ)が消えているところを見た人はだれもいません。毎晩、夜おそくまで灯(ひ)の下で学問(がくもん)にうちこむマチューのすがたがありました。
マチューの中国語(ちゅうごくご)のじょうたつぶりは、久米村(くめむら)の人びとの間でさえ評判(ひょうばん)になるほどでした。このようなマチューが認(みと)められるのには、時間がかかりませんでした。たちまち久米村(くめむら)の総役(そうやく)(頭(かしら))の信頼(しんらい)をえ、「徐肇基(じょちょうき)」という唐名(とうめい)をあたえられるほどでした。唐名(とうめい)というのは、中国風(ちゅうごくふう)の名の意味で、唐名(とうめい)を名のるということは、とても栄誉(えいよ)なことでした。そのことは、さっそく国もと(野国村(のぐにむら)) の父や母にもしらせることにしました。
久米村(くめむら)というのは、現在の那覇市の天妃(てんぴ)小学校ふきんにあたります。そのころの久米村(くめむら)は、ほとんど明国(みんこく)(中国)からやってきた人たちが住(す)んでいました。ですから、ほとんどの人が明国(みんこく)の服装(ふくそう)をしていて、琉球(りゅうきゅう)のなかでもとてもかわったふんいきを持っていました。しかし、久米村(くめむら)の人々の多くは、明(みん)への使節(しせつ)になったり、通訳(つうやく)としてかつやくしたり、あるいは進貢船(しんこうせん)の乗組員(のりくみいん)として、明国(みんこく)との貿易(ぼうえき)にたいせつな役目をはたしていたのです。もちろん、なかには商売(しょうばい)のために住(す)みついたり、船が難波(なんぱ)して漂着(ひょうちゃく)してそのまま住(す)みついたものもいました。
さて、その当時の中国(ちゅうごく)は、世界のなかでももっともすすんだ国の一つで、日本にも大きなえいきょうをあたえていました。日本の奈良(なら)、平安(へいあん)、鎌倉(かまくら)、室町(むろまち)時代の文化(ぶんか)はもちろんのこと、学問(がくもん)、宗教(しゅうきょう)、産業(さんぎょう)、技術(ぎじゅつ)、政治(せいじ)にいたるまで、ほとんどがすすんだ中国(ちゅうごく)の指導(しどう)をうけていました。みなさんが社会科の時間に教わる遣隋使(けんずいし)や遣唐使(けんとうし)も、中国(ちゅうごく)のすすんだ政治(せいじ)・経済(けいざい)のしくみや文化を吸収(きゅうしゅう)して持ちかえり、日本を発展させるのに大きな役割(やくわり)をはたしたのです。


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