
甘藷(かんしょ)畑
あまく、かぐわしい匂(にお)いにつづまれた新しい作物(さくもつ)の味(あじ)は、野國總管(のぐにそうかん)にとって夢(ゆめ)にまで見た琉球(りゅうきゅう)の百姓(ひゃくしょう)の命(いのち)をつなぐ作物(さくもつ)だったのです。親切(しんせつな)な中国人(ちゅうごくじん)の百姓(ひゃくしょう)は、甘藷(かんしょ)について、しっているかぎりのことを野國總管(のぐにそうかん)に教(おし)えました。
甘藷(かんしょ)とよばれる新しい作物(さくもつ)は、原産地(げんさんち)がメキシコで、スペイン人が自分の国へもち帰り、そこからルソン島(今のフィリピン)へ伝わり、そこから中国人(ちゅうごくじん)によってもたらされたものであるということ。ルソンでは重要(じゅうよう)な食物として、国の外へ持ち出すことは禁止(きんし)されていて、中国人(ちゅうごくじん)は持ち出すことに苦労(くろう)したこと。そのさいには、イモヅルを船の帆綱(ほづな)にぬいこんでばれないようにしたことなどや、乾燥(かんそう)してかれてしまう場合にそなえて、そのまま船底(ふなぞこ)にかくして持ち出したことなど。それは、一五九四年のできごとだったことなどです。また、中国(ちゅうごく)で植(う)えつけに成功したのち、福建省(ふっけんしょう)の地方(ちほう)の長官(ちょうかん)をしていた全学曹(ぜんがくそう)という人が、中国各地(ちゅうごくかくち)にひろめることに成功(せいこう)したので、甘藷(かんしょ)のことを蕃藷(ばんしょ)、全薯(ぜんしょ)あるいは紅薯(こうしょ)ともよばれていることなどを教(おし)えてくれたのです。
それからというもの、野國總管(のぐにそうかん)の新しい作物(さくもつ)についての調査(ちょうさ)が、熱心(ねっしん)にすすめられました。新しい作物(さくもつ)の性質(せいしつ)や栽培(さいばい)する土地(とち)の性質(せいしつ)、栽培(さいばい)する時期(じき)や方法(ほうほう)、食べ方まで、できるかぎりのことをしらべあげました。
さて中国皇帝(ちゅうごくこうてい)のごあいさつにでかけた使節団(しせつだん)の一行(いっこう)が、まもなく帰ってきます。いよいよ、半年間にわたる中国(ちゅうごく)での生活にもわかれをつげなければなりません。野國總管(のぐにそうかん)の頭には、どうしてこの新しい作物(さくもつ)を琉球(りゅうきゅう)に持ち帰ればよいかということで、いっぱいでした。くる日もくる日も、よい方法(ほうほう)はないものかと考えあぐねていました。
ここ福建省(ふっけんしょう)では、貴重(きちょう)なものを国の外へ持ち出すことは禁止(きんし)されていました。この新しい作物(さくもつ)も、持ち出しを禁止(きんし)されていたのです。どんな土壌(どじょう)にも育(そだ)ち、気候(きこう)にも左右されず、病害虫(びょうがいちゅう)の被害(ひがい)も少ない。土の中にできるイモ、青い葉っぱ、茎(くき)までも食べられる、この新しい作物(さくもつ)こそ、琉球(りゅうきゅう)の百姓(ひゃくしょう)たちの命(いのち)をつなぐものです。どんなことをしても持ち帰らなければなりません。海をへだてたとおく琉球(りゅうきゅう)までの長い航海(こうかい)を、はたしてかれさせないで持っていけるのか。禁止(きんし)されているのを持ちだすのだから、万が一にも見つかると、野國總管(のぐにそうかん)ひとりが罰(ばつ)をうければすむことではないのです。長い間、先人(せんじん)たちがつみあげてきた中国(ちゅうごく)と琉球(りゅうきゅう)との友好関係をもそこなってしまうのです。それでも、野國總管(のぐにそうかん)の決心(けっしん)はかわりませんでした。
「どんな危険(きけん)をおかしても、自分の命(いのち)にかえても、琉球(りゅうきゅう)まで持ちかえってみせる」
帆綱(ほづな)にぬいこもうか。竹の杖(つえ)の中にかくそうか。鉢植(はちう)えの方がよいだろうか。潮水(しおみず)にぬらしてしまうとかれてしまう。船の中にはじゆうぶんな水がないし…。


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