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25.沖縄における甘藷の名称・種穎(3)
野國總管が導入した蕃藷(バンショはハンスと発音したのであるが、中国語では「ハンチイ」とか「ファンシ」というようである。その種類は朱薯といわれ、赤いも系統だったようである。その後、唐芋(トーウム)や黄蕃藷(キバンショ)といわれる品種が伝わってきたのである。五穀の補助や救荒作物として重要視された甘藷は忽(たちま)ち民百姓の主食となっていった。その名称も1700年半ば頃からウムが主流となってきたようである。具志頭親方(ぐしちゃんウェーカタ)文若(ぶんじゃく)(葵温)、美里親方安満(みさとウェーカタあんまん)(毛乗仁)、伊江親方朝叙(いえウェーカタちょうじょ)(向和聲)、北谷王子朝騎(ちょうき)(尚徹)(しょうてつ)の連名で1734年に評定所から布達された『農務帳』には、甘譜のことを「はんつ芋」と記述している。当時の方音で「チlは「チプル(ゆうがお)」を「ツブル」と表記するように「ツ」と表記するので中国語のハンチを「はんつ1と記述したのであろう。1745年に金城筑登之親雲上和最が著した『寒水川村金城(スンガーむらなかぐすく)筑登之親雲上耕作方相試田地奉行所(チクドゥンペーチンこうさくほうあいこころみでんちぶぎょうしょ)へ申出之條々(じょうじょう)』では「芋」と記述されている。1840年の大宜見聞切の『耕作下知方並諸物作節附帳』(こうさくげちかたならびにしょぶつさくせつつけたりちょう)では「いも」、1838年の『西村外間筑登之親雲上農書』(にしむらほかまチクドゥンペーチンのうしょ)では「芋」 と記載されている。

 いずれも標記では「芋・イモ」であるが、方音では「ウム」である。

 さて、甘藷の種類であるが、1694年に黄色の蕃藷が導入され以後の甘藷の種類を『球陽』の記録から紹介する。球陽は1743年に編纂が開始され1745年に完成しその後も年代順に書き嗣がれ1876(明治9年)年にまで及び歴史書である。

1 古知屋邑(クチャムラ)の名嘉真、親(したしく)蕃薯を各署に流布(るふ)す (尚貞王39年、1707年)

 金武郡古知屋邑の名嘉真、一日浜に往き潮を汲むや、忽ち一番薯葉は巳に裂開(れっかい)し、色は紅にして常に異るを見たり、名嘉真深く之れを奇疑(きぎ)とし、即ち此薯(このいも)を帯びて之れを宅地に植ゆるに、葉自ら茂盛(もせい)し、
実を結ぶこと夥多(かた)なり。熟するとき最も早、地の肥痩(ひそう)を択(えら)ばず。亦能(またよく)風寒に耐え凌(しの)ぎて、常に蕃薯に絶勝(ぜっしょう)す。人皆来(きた)って其種(そのたね)を求め裁植をなす。之を名けて古知屋薯と日ふ。辛亥(かのと)(1731)の年に至り、恭(うやうや)しく褒美を蒙(こうむ)り、直ちに王冠に陛(へい)す。

 2 本年、赤田村密氏比屋根(みつうじヒャークン)筑登之親雲上方登(ホウトウ)の農功を褒嘉(ほうが)して大米を賞賜(しょうし)す。(尚泰王4年、1851年)方登素(もと)より農務に志して芋蔓(ウムカンダ)の諸品を撮集(さいしゅう)す。大黒芋蔓(ウフクルウムカンダム)を択取(たくしゅ)し播(ま)くに其種を以てす。其生(そのしょう)する所の蔓(かずら)を以て多方に試植するや、そ結実(けつじつ)甚(はなは)だ多く成熱亦早きこと、他(たの)芋蔓の可きにあらず、即ち其法(そのほう)を以て広く世に伝え、人をして饒(ゆた)かに食用を供(そな)えしめ、益を胎(のこ)すこと少なからず。是れに由つて朝廷大米(たいまい)三石起(おこし)を賞賜し以て盛典(せいてん)を示す。

 以上、『球陽』から2品種の記録を紹介したが、1838年の『西村外間筑登之親雲上農書』「木綿花仕付之事」(しつけのこと)の項に「4、5月の綿の間にこちゃ(古知屋)という品種の芋を間作(かんさく)してもよい」という記録からして、古知屋薯は100年以上も栽培されている息の長い品種だったことがわかる。
(文:宮平 友介)