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24.沖縄における甘藷の名称・種穎(2)
 黄藩藷という品種は、翁姓家譜(四世伊舎堂親方)によると、1694年に伊舎堂親方が福建に赴(おもむ)いて新城筑登(あらぐしくチクドゥン)と富名腰(ふなこし)筑登之を使わして手に人れたとなっている。
  
 大史姓家譜(たいしせいかふ)にも、この品種の導入の記録がある。なお、大史姓家譜の甘藷伝来に関する原文が『八重山歴史』「1953年版」に記載されている。その記録によると。1694年に五世の高康(こうこう) 西表首里大屋子(シュリウフヤク)(四世高根(こうこん)波照聞首里大屋子の長男)は、沖縄本島からの帰りに嵐に遭い、中国の属地である鎮海(チェンハイ)に漂着した。そこで黄蕃藷が植えられているのを見て、その由来を尋ねたところ、去る五月頃にベトナムの漂着船から導入した蕃藷(ばんしょ)だということがわかった。さっそく、この黄蕃藷を手に入れて、福建省福洲の琉球館(柔遠駅(じゅうえんえき)のこと)に赴いた。そこに滞在していた官人にこの黄蕃藷を分け与えた。その官人の乗る帰唐船に便乗(びんじょう)し、無事沖縄本島に着くことができ八重山に帰ることができた。黄蕃藷は小禄間切垣花の畑に植え付けられ国中に広まるようになった。黄蕃藷は、そこから八重山島にももたらし、おおいに繁殖させることができた。ということである。

 官人とは伊舎堂親方盛富のことで、高康は伊舎堂親方の乗っている帰唐船に便乗し、一緒になってこの甘藷を沖縄本鳥にもたらしたのであろうと思われる。なお、八重山への伝来については、八重山農林高等学校南東かどに建つ「波照間高康翁碑文」にも詳しく記されている。次に、沖縄への甘藷伝来初期のころ、宮古へ伝わった甘藷のことについて簡単に述へてみよう。これについては、『琉球之五偉人』にもでているが、平良市役所発行の『平良市史』第一巻通史編1「先史~近代編」に詳しいので、ここではそれを紹介する。

宮古への甘藷の伝来については、『河充氏家譜』(かわみつうじかふ)の真逸(シンイツ)砂川親雲上の経歴の項にみられる。それによると、真逸砂川親雲上は童名を真山戸と言い、1591(万暦19)年に生まれている。父は砂川親雲上真饒、(シンジョウ)母は新立氏下(あらだてうじ)の妹保奈利(ほなり)で披女は大阿母(オオアモ)でもある。1594(万磨22)年の頃に、「お目見えのため、頭(ガーラ)の砂川親雲上と心をあわせて中山に至った。このときに、聞得大君嘉那志(キコエオオキミガナシ)の御前で女子が無いことを嘆いて、童子一人(真逸のこと)をいただいた。公事がすべて終わった。宮古島に帰る途中、海上で風の災難にあい、唐の国へ漂着した1597(万磨25)年の帰路の時に大和へ流れ着き、同年に島に帰った。唐より芋をもたらし、島じゅうに広まるなり」という内容の記録がある。

 この記事により、1597(万暦25)年に砂川親雲上旨屋(しおく)が宮古に甘藷を伝えた事になっているという。
しかし、『宮古島庶民史』には、真逸の母保祭利が大阿母としてお目見えのため上国し、聞得大君から真逸を貰いうけたことと、真逸が成長の後、頭の長真氏砂川親雲上旨屋と同心して御物宰領役で上国し、帰途唐に漂流し、帰島の時に甘藷を持ち帰って流布させたことが一緒に書かれたために年代に大きな差が出ているという。真逸が川満与人(ユンチュ) 旨屋が首里大屋子職にあって、一緒に貢物宰領役として上国できる立場にある1618年を甘藷伝来の時期にすべきという。真逸が川満与人に栄転したのは、1617年、旨屋が頭になったのは、1632年である。宮古島伝来の甘藷の表記が「蕃藷」ではなく「芋」「唐芋」と なっているのは、覚え書きで後年記録されたためと思われる。
(文:宮平 友介)