
村じゅうの百姓(ひゃくしょう)が、こぞって總管(そうかん)より苗(なえ)をわけてもらい、移植(いしょく)してから五カ月がすぎました。野国村(のぐにむら)の畑は、青々とつややかな色にかがやく甘藷(かんしょ)の葉でおおいつくされました。
野國總管(のぐにそうかん)は、朝からソワソワと落ちつきません。いよいよ、中国(ちゅうごく)から持ちかえって移植(いしょく)した甘藷(かんしょ)をほりだす日なのです。
「はたして琉球(りゅうきゅう)の畑でもみごとな実(み)をつけてくれるのかしら?」
確信(かくしん)はもっていたものの、やはり実際(じっさい)にほりだしてみなさいと、安心できないのでした。
村(むら)じゅうの百姓(ひゃくしょう)たちが、朝早くから畑にでていました。だれもが不安(ふあん)と期待(きたい)のいりまじったおちつかない気分(きぶん)でした。總管(そうかん)に教(おそ)わったとおりに、まず、畑一面にひろがった甘藷(かんしょ)の茎(くき)をかりとることから作業(さぎょう)がはじまりました。かりとられた茎(くき)は、畑のそばにうず高く積(つ)まれています。
「さあ、いよいよほりだすぞ。」
最初のくわが、土の中にグサリとつきささりました。祈(いの)りをこめて、土をほりおこしました。しっかりとはった根には、小さいのやら大きいのやら、三つも四つも実(み)がついているのです。
「ついている、ついているぞ!」根(ね)にぶらさがった実(み)を高々と持ちあげた百姓(ひゃくしょう)は、よろこびにみちた声をはりあげました。どの株(かぶ)からも、みごとな実(み)がつぎからつぎへとほりだされていきました。 畑の中からは、百姓(ひゃくしょう)たちのよろこびの声が聞こえてきました。ひさしぶりに見る、百姓(ひゃくしょう)たちのよろこびにあふれたすがたでした。「ああ、どれほどこの日をまちのぞんだことだろうか。」
野国村(のぐにむら)で成功した甘藷(かんしょ)の植(う)えつけは、ほどなく、となり村(むら)の砂辺(すなべ)や野里(のざと)、屋良(やら)へとひろがっていきました。
このうわさは、やがて真和志間切垣花村(まわしまぎりかきのはなむら)(現在の那覇市垣花) の地頭職(じとうしょく)(村長) についていた儀間真常(ぎましんじょう)(一五五七~一六四四年) の耳にはいることになります。
みなさんも儀問真常(ぎましんじょう)についてはよくしっていると思います。木綿織物(もめんおりもの)を琉球(りゅうきゅう)でひろめたことや、砂糖(さとう)の製造法(せいぞうほう)を伝えたことで、産業(産業)の恩人(おんじん)とよばれています。 儀間真常(ぎましんじょう)も、總管(そうかん)と同じように、垣花村(かきのはなむら)の百姓(ひゃくしょう)の苦しみを救(すく)う作物(さくもつ)はないものかと、日ごろより考えていたのです。そんなときに、野国村(のぐにむら)の話を伝え聞いたのでした。
さっそく、供(とも)のものをひきつれて、はるばる野國總管(のぐにそうかん)のもとへたずねてきたのです。はじめて見る甘藷(かんしょ)畑の前で、真常(しんじょう)は總管(そうかん)もおどろくほどの熱心(ねっしん)さで観察(かんさつ)していました。中国(ちゅうごく)ではじめて甘藷(かんしょ)畑に案内されたときと同じでした。總管(そうかん)が、
「ああ、この人こそ、わたしがさがしもとめていた人だ。」
總管(そうかん)は心ひそかに思いました。
新しい作物(さくもつ)は、ぜひとも国じゅうにひろめなければならない、と總管(そうかん)は考えていたのです。とはいっても、總管(そうかん)ひとりだけで国じゅうの百姓(ひゃくしょう)に新しい作物(さくもつ)の植(う)え方を指導(しどう)することは、とてもむりなことでした。りっぱな協力者が必要だったのです。
新しい作物(さくもつ)を垣花(かきのはな)でも栽培(さいばい)してみたいという真常(しんじょう)のもうしでを心よくひきうけた總管(そうかん)は、中国(ちゅうごく)で教(おそ)わったいろいろなことを真常(しんじょう)にも伝え、また、実際(じっさい)に植(う)えてみた経験(けいけん)もていねいに教(おし)えました。苗(なえ)のえらび方、植(う)え方、肥料(ひりょう)のほどこし方、つるののび具合(ぐあい)、収穫(しゅうかく)のし方、保管(ほかん)の方法(ほうほう)まで。うわさ以上に、琉球(りゅうきゅう)の土地(とち)に適(てき)した作物(さくもつ)にちがいない、という確信(かくしん)をもった真常(しんじょう)は、さっそく垣花(かきのはな)にもちかえり、百姓(ひゃくしょう)たちに植(う)えさせたのです。
垣花(かきのはな)でも、甘藷(かんしょ)のできはじょうじょうでした。畑一面にひろがる青々とした葉、ほりかえしてみると、みごとな実(み)が五つも六つもついているのです。
「上(うえ)さま(国王) に試食(ししょく)願おう。そして、国じゅうにひろめてもよいというお許(ゆる)しを願おう。」
野國總管(のぐにそうかん)が中国(ちゅうごく)よりもちかえり、琉球(りゅうきゅう)でとれたイモを、しげしげとながめていた国王(こくおう)は、半分にわると、
「う-ん、なかなかこうばしいかおりがするものじゃ。」
というと、口にいれました。
「う-ん、なんともやわらかいあまさが口にひろがっていくようじゃ。これは、なかなかの美味(びみ)じゃ。これだけの作物(さくもつ)が国じゅうにひろまると、ききんになってもがしするものをださなくてもすむかもしれん。台風(たいふう)やかんばつにも強いとも聞いたが、確(たし)かじゃな?」
「はあ、上(うえ)さま、かずらは地をはうようにのびていきますし、イモは土の中に実(みの)るのでございます。ですから風がふいても、土の中のイモはびくともしません。それに日でりがつづいても、めったにかれてしまうことはないともうします。」
「う-む、これはわが琉球(りゅうきゅう)を救(すく)う作物(さくもつ)に育(そだ)つかもしれぬ。国じゅうにひろめたいともうすそちの願い、わしが許(ゆる)す。野國總管(のぐにそうかん)ともよく相談(そうだん)して、国じゅうの百姓(ひゃくしょう)に、新しい作物(さくもつ)を植(う)えるようにはからうがよい。そして、みごとききんから人びとを救(すく)うてみせよ。」
国王(こくおう)の許(ゆる)しがでたことは、さっそく野國總管(のぐにそうかん)にしらせました。そして、琉球(りゅうきゅう)を二つに分けて、ふたりで協力して、甘藷(かんしょ)の栽培(さいばい)をひろめることにしたのです。
儀間真常(ぎましんじょう)は、那覇、首里より島尻一帯(しまじりいったい)へひろめることをうけもち、野國總管(のぐにそうかん)は中頭一帯(なかがみいったい)から国頭一帯(くにがみいったい)へとひろめることにしました。
ふたりの熱心(ねっしん)な働きぶりに、見たことのない作物(さくもつ)に不安(ふあん)をいだく百姓(ひゃくしょう)や、茎(くき)よりでる白い液(えき)は毒(どく)ではないかとうたぐる百姓(ひゃくしょう)たちも、つぎつぎと甘藷(かんしょ)を栽培(さいばい)するようになります。間切(まぎり)から間切(まぎり)へ、村(むら)から村(むら)へとひろまっていった甘藷(かんしょ)の栽培(さいばい)は、やがて国じゅうの畑で見られるようになっていきました。台風(たいふう)や日でりがつづいても、ききんになってがしするものがでたということはほとんど聞かれなくなっていました。そして、おいしくて腹(はら)もちのするイモは、百姓(ひゃくしょう)にとってたいせつな主食(しゅしょく)となったのです。
百姓(ひゃくしょう)の命(いのち)をつなぐ新しい作物(さくもつ)を、命がけで中国(ちゅうごく)から持ちかえり、国じゅうにひろめた野國總管(のぐにそうかん)を、人びとは感謝(かんしゃ)の気持ちをこめて「甘藷大主(ンムウフシュ)」とよぶようになりました。また、總管(そうかん)を助け、甘藷(かんしょ)作りの指導(しどう)を熱心(ねっしん)にといた儀間真常(ぎましんじょう)は、これまた心よりうやまう気持ちをこめて「唐芋地頭様(からいもじとうさま)」とよばれるようになりました。

Copyright 嘉手納町役場. All Rights Reserved.