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 奄美諸島は、1400年代の後半から1609年までの間、喜界島、奄美大島、徳之島、沖永良部島、与論島の各島は琉球王府の支配下におかれていたために、これらの島々へは早くから甘藷が伝わったといわれています。奄美大島では、1630年代に甘藷が伝わり、主食として利用されていたことが文献には記されています。

 1611年、琉球王尚寧(しょうねい)は、琉球征伐で滞在していた薩摩兵の送別の宴席で甘藷を賞味させたところおいしいと喜ばれ、帰国の時、甘藷を所望され、生の甘藷を贈呈したと文献には記されており、これが沖縄から他地域への持ち出し第1号といえるのかも知れません。

 一方、種子島の島主種子島久基(ひさもと)は、1698年、琉球の尚貞王(しょうていおう)から甘藷を一篭贈られ、それを家老西村時乗(ときのり)に栽培を命じ、西村は西之表の下石寺の休左衛門に試作させたといいます。(種子島家譜より)種子島では、これが日本本土での甘藷栽培の始めだといわれ、これを記念して、西之表市下石寺には「日本甘藷栽培初地の碑」が建てられています。現在、休左衛門の13代目に当たる大瀬正雄(大正9年生)さんは、休左衛門が試作したといわれる畑地を守り続け、市役所等に捧げる献上いもを栽培しています。種子島では、平成10年10月30日に「からいも伝来300周年記念式典」を挙行し、記念事業として、「全国公募からいもソング・からいも童話」の募集を行っています。からいもソング最優秀作「からいもくん」の出だしの歌詞には、「からからイモイモいいもんだ」と歌われています。

 また、長崎の平戸には、種子島よりも早く甘藷が栽培されたという記録があります。それによりますと、平戸にあるイギリスの商館員並びに商船の船長でもあるウィリアム・アダムス(日本名は三浦安針(あんじん))は、1615年、シャムに行く途中商船が浸水し、琉球に寄港した際、那覇で買った甘藷一袋を商館長のリチャード・コックスに贈呈しました。コックスは、この甘藷を早速、平戸島の千里ケ浜に接する鳶
(とび)の巣に畑地を1年間の賃貸料英貨5シリングで借り受け、百姓を雇い入れ甘藷を栽培させたといいます。この地には、現在、「コックス甘藷畑跡」の碑が建てられ、わが国で最初に甘藷が栽培された地として伝えられています。当時の栽培法は、いも蔓(かずら)を植えるのではなく、生の甘藷をそのまま植えたといい、現在でも鳶ノ巣付近ではこの植え方が行われ、名称も琉球イモと呼んでいます。