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44. 甘藷の開拓者、野國總管
400年前、日本に持ち込み栽培始めた琉球の官吏を研究
 沖縄では「イモ」「甘藷」と呼ぶサツマイモが中国・明から日本に伝来して今年で四百年になる。

現代ではお菓子や焼酎の原材料として親しまれているが、かつては飢饉の非常食で、我々は終戦後まで主食にしていた。このイモを伝えたのは、琉球(沖縄県)嘉手納出身の野國總管。あまり知られていない人物だが、地元で育った私は8年前から甘藷伝来400年記念事業に向け、研究仲間とその実像を探っている。
伊波勝雄
薩摩に伝わる百年前
 サツマイモというと、薩摩(鹿児島県)特産というイメージが強い。18世紀前半の飢饉対策として「甘藷先生」と呼ぼれた青木毘陽が土地がやせ、水が少なくても育つ特性に着目して栽培を広めた話は有名だが、野國總管はこのイモを、薩摩に伝わる百年前の1605年に明から琉球に持ち込み、栽培していた。沖縄の人々がいまだに「サツマイモ」ではなく「イモ」と呼ぶのはこうした経緯のためだ。

あいにく總管の史料はほとんど残っていない。生没年不詳。「野國總管」の名前も資料の記述から拾った呼称で、姓は出身地野国村(現嘉手納町)を指し、名は琉球王国の役職を示す。琉球から明に朝貢する「進貢船」使節の事務長(總管)だった。總管の業績は17世紀末に書かれた「麻姓家譜」の数行の記事が伝えている。彼に指導を受け琉球に栽培を普及させた儀間真常(1557-1644)の子孫が伝えた記録で、1605年に「總管野國、唐土より鉢に藩薯を植えて帯来す」とある。真常は總管が鉢植えで持ち帰った甘藷のうわさを聞きつけ、栽培方法の教えを請うた。總管は茎を輪のような形状にして地に植える方法を教えた。数年後に飢饉が起き、真常は穀物の代わりとして琉球全域に広めた。

この話は、18世紀に琉球王府が編さんした「琉球国由来記」や正史「球陽」にも記されている。

もともと農民の出身
 甘藷の起源は約5千年前の中南米。約2千年後に南太平洋の島々に渡り、15世紀末にコロンブスブが欧州に持ち帰り、アジアの植民地に入った。ルソン(フイリピン)から明に伝わったのは1593年。

その12年後に琉球に入る。この間、琉球から明への進貢船派遣は9回。一回の使節に200人前後が参加しており、計2,000人が明で甘藷を見る機会があったはずだが、実際にイモを見て有用性に気づいたのは、總管だけだった。それは彼が農民出身で、農作業の経験が豊富だったからだろう。農民から官吏に取り立てられること自体が珍しい時代、外交使節の重職についているとこうに、その並々ならぬ才気と海外を見たいという強い意欲が感じられる。進貢船は福建省の福州に3、4ヶ月停泊。一行は現地の琉球館に滞在し、正使・副使ら約20人の使節が都の北京訪問から戻るのを待った。總管はそこで甘藷と出合ったのだうう。「麻姓家譜」記述から、總管は帰国後、甘藷を携え野国村に戻ったことがわかる。琉球で甘藷の実用化を進めるため、官吏としての生活を捨て、農村での普及活動に取り組んだ。その活動が王府高官の儀間真常の目にとまり、実を結んだ。以来、總管は島民分から「甘藷大主(ンムウスー)」と呼ばれ、産業興隆の恩人とされてきた。1955年には甘藷伝来350周年の記念行事が嘉手納村で行われ、彼をまつる宮が造られた。甘藷は、琉球-薩摩-江戸ルートのほか、徳川家康側近の英国人、ウイリアム・アダムス(三浦按針)により長崎・平戸の英国商館に届けられた。種子島や対馬、島根県石見にも伝わった。

伝えたい進取の気性
 調査で訪れた土地では「イモのおかげで先祖は間引きされずにすんだ。だから我々はいま生きている」と話す人もいる。8年前、町の教育長で郷土史を研究していた私が、總管の実像を探ろうと思ったのは、食生活の変化で、庶民の食を支えた甘藷のありがたさが忘れ去られようとしていると感じたからだ。沖縄県の甘藷収穫量は戦前は50万トンを超えていたが、最近では5干トン前後に激減。嘉手納町では、町域の83%が米軍基地で、栽培風景も消え、甘藷の恩恵を感じる機会はなくなっている。

 9月末から10月初に町では「野國總管甘藷伝来400年祭」を開催。總管をしのぶ。我々5人の研究成果は来春までに記念誌にまとめ、總管の世界に開いた進取の気性、社会貢献の心を次代に伝えたいと思う。
(いは・かつお=野國總管甘藷伝来400年祭実行委員会記念誌編纂部会長)