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38.琉球の甘藷ミニ知識 ②いもの名の由来
○狩俣あっこん
 宮農1号の別名。宮古の狩俣という人が西表に導入したのでこの人の姓が甘藷の名になったもの。

○金蔵(きんぞう)いも
 伊良部島字仲地の平安山金蔵が1951年に実生より育て普及させた甘藷。別に姓をとって平安山7号という場合もある。伊良部に最も適した品種であったという。

○くらが一芋
 読谷村楚辺の暗井(くらがー)あたりからこの品種が広まったとされ、その名がついたと言われている。

○古知屋(くちや)いも
 古知屋は現在の字松田のこと。琉球王府時代名嘉真という人が海岸で見つけた芋が土質を選ばず多収であったため普及した。村の名が芋の名になった。

○さんだーいも
 種子島の間小学校運動場の一角に碑がある。それによると豊見城村にさんだーという人がいてこの人が栽培を始めたのでその名がついたという。小学校の碑は1856年さんだ一芋の導入記念碑。

○佐久川いも
 読谷村字比謝の佐久川清助(1850~1911)が1894年混作甘藷畑よりみつけた実生より育種した品種。姓からついた名。佐久川1号~19号と各種ある。

○坂下いも
 現在の那覇市の坂下(地名)の新里鶴千代が1912年育成した品種。字坂下の名をとって名付けたもの。

○勝利(しょうり)百号
 沖縄百号の中国名。日本をはじめ各国の侵略と国内戦を制して中国革命が成功したことを記念して名づけられたもの。当時中国で幅広く栽培され人気のあった沖縄百号を改名したものである。

○しじゅうにち
 40日。奄美地域で栽培され、40日では収穫が始められるとされてその名がついたものである。

○善一郎(ぜんいちろう)いも
農林17号の別名。現在の名護市久志にこの品種を始めて導入した善一郎という人の名前が芋の名になったものである。

                                            
<文・崎原恒新>