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3.野國總管の身分とその子孫
 野國總管の身分については、沖縄名の「松」からして、先祖来来、野国村の百姓の出身だったと思われます。彼は百姓の身でありながら、海外雄飛の希望に燃え、艱難辛苦・刻苦勉励の末、中国語をマスターし、遂に総管職を手に入れ中国行きの夢を果たしたものと考えます。野國總管は中国からの帰途、甘藷を持ち帰り、その伝播により庶民の生活の窮乏を救うという偉業が子孫の代になって王府の認めるところとなり、士籍が与えられ、野國總管を祖とする「総姓世系図」(嘉手納町史民俗資料頁134 に掲載)が作成されたものと思われます。

 総姓世系図は、總管の子孫、糸満の古堅家が保存していたものであり、この系図によりますと、總管(1世)には、一男があり、この長男が位牌にある「總管嫡子與那覇碧林(法名・二世)」であります。この碧林(法名)からは、五男(三世達)の子どもたちが誕生しています。その内の一人長男は、姓与那覇と号雪庭を名乗り医術を学び首里に移住しています。この雪庭の4世・5世の代に比嘉筑登之親雲上という比嘉姓を名乗り、その6世の代に士籍の仲間入りを果たし、士族の証である譜代が与えられています。彼らの名前には、甘藷に因んだ蕃宣とか蕃常、蕃春という名が付けられています。碧林(法名・二世)の他の4男は、その父と共に郷里野国村に住み、次男は宮城姓、三男は宮平姓、四男は平良姓、五男は与那城姓を名乗っています。

 野國總管の位牌は、この子孫からかあるいは養子をとって現在の第13代目まで継承されたと考えられます。この13代目の比嘉蒲助の父である第12代目の比嘉蒲は、野里村から養子に入り、その先祖来続いてきた家・屋敷に戦争前まで住んでいたと伝えられています。4世以降の子孫たちの中には首里に移住した一族の与那覇家が士籍としての比嘉姓を賜ったことにあやかり与那覇姓から比嘉姓に替えたことも考えられます。總管三世、三男腹の宮平家は、現在まで綿々と宮平姓を名乗り、「オオキナーレーラ」の屋号でその子孫が繁盛しています。
(文責伊波勝雄)