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 國總管については、これまで生没年及び正式な姓名すら不明だと言い伝えられてきました。「野國總管」という名は、北谷野国村の出身で中国貿易の進貢船の総管職(事務長職相当)を務めたという意味で、出身地と役職名を言い表した呼び名であります。

 ところで、姓名については、総姓世系図等からやや明らかになります。その一世の項には、「大宗藩初野國総管号松岩室号永屋」とあり、現在、13 代目まで与那覇として継承されている總管の位牌には「總管野國松岩名乗裕初言名總世健」という記述があることから推測すると野國總管の姓名は、

沖縄名―与那覇 松 大和名―与那覇 裕初 中国名―總世健
マチュー ユウショ

と呼ばれていたのではないかと考えます。なお、野國總管の妻の名は、法名が「永屋」とあるところからみて、沖縄名は、「永」と呼ばれていたものと思われます。

 姓名については、沖縄名はワラビイナー(童名)とも呼ばれ、生まれたときに親等が名付けたものと思われますが、大和名は1609年から1879年までの270年間、琉球は薩摩藩の島津氏の支配下に置かれ、いろいろな人的・物的・文化交流なども行われるようになり、人々の名前も大和風に習い大和名を用いるようになったものと考えます。中国名(唐名)は、察度王が1372年、初めて中国の明の国と進貢貿易を行ったのをきっかけに、1392年には中国から人三十六姓が帰化し、後に彼らは、中国帰化人の村・久米村を形成するようになります。この久米村出身者が中国語を駆使して首里王府の外交政策に携わるようになります。この影響を受け、王府の役人や士族なども中国名を用いるようになったものと思われます。

 野國總管の中国名「總世健」の「總姓」は、士籍に列された時に王府から賜ったものと考えられ、「世健」という名は、総管職として中国に渡る時に与えられたものなのか、あるいは、士籍に列された後に名付けられたものであるかについては明らかではありません。
(文責伊波勝雄)