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11.芋地蔵 下見吉十郎
 愛媛県の瀬戸内海中部に大三島(おおみしま)という面積約65平方キロメートルの島があります。今では、各周辺の島々に橋が架けられ今冶(いまばり)から大三島にはバスで行けます。この大三島は、芋地蔵と呼ばれた下見吉十郎の生誕地でもあり、吉十郎には、次のような言い伝えがあります。

 下見吉十郎は1673年、大三島の瀬戸村に生まれ、結婚し、やがて二男二女の子どもが生まれましたが、幼くして4人ともつぎつぎにこの世を去ってしまいます。そこで彼は、世をはかなんだあげくに六十六部(廻国(かいこく)の一つで、書写した法華経を全国66ヶ所の霊場に一部ずつ納める目的で、諸国の社寺を遍歴する行脚僧)になって巡礼の旅に出ました。

 この巡礼の旅で吉十郎は、薩摩の伊集院村の農家で甘藷をわけてもらい(1711年)、それを大三島に持ち帰り、栽培法を農民にすすめ、やがて、大三島から近隣の地へと広く甘藷の栽培が盛んに行われるようになりました。吉十郎には、巡礼のご利益があったのか、つぎつぎと4人の男の子が生まれ、皆元気に成長し、家督(かとく)は4男の嘉平太(かへいた)が継ぎ、吉十郎も長生きをし、1755年82歳で世を去りました。

 大三島では、これまで主食用の畑作として、秋の麦を蒔き、春に収穫し、その後には主食を補う作物として、大豆、粟、キビなどを栽培していました。ところが、甘藷が入るようになると麦の次にはもっぱら甘藷を栽培し、食糧の確保に努めるようになり、甘藷は麦以上の収穫が得られるので農民の食糧事情は倍加したといいます。

 その当時、飢饉が起こり、食料が不足すると農村では間引(口べらしのため親が生児を殺すこと)が行われました。その例として、享保の飢饉(1733年)には約90万人、天明の飢饉(1783年)では、100万人の人々が間引きや餓死などによって人口が減少したといいます。ところが、大三島では、1735年には8100人であった人口が、1799年には1.3倍の1万830人にふくれ上がり、逆に人口が増加しています。このように、大三島で人口が増加したのは甘藷という食料が十分にあったからだと、大三島の郷土史研究家の木村三千人氏は述べています。 

 島の人々は、下見吉十郎を命の恩人として彼の死後、このご恩に報いるため、没後95年目の嘉永(かえい)3年(1850年)のご命日の8月1日、大三島曹洞宗(そうとうしゅう寺院・大通寺(だいつうじ)の境内に芋地蔵の碑を建立しました。その後、広島県の三原市因島市など22に寺院やお堂などに下見吉十郎の芋地蔵が建立され、彼の恩徳を称えています。
(文責  伊波 勝雄)