世界の人びとの食生活
1 主食の話から始はじめよう
主食の座をしめていたもの
 私たちは現在、お米を主食として食べています。

しかし、世界の国々がすべて、お米を主食としているわけではありません。たとえば、南米アメリカやヨーロッパの国々では大麦・小麦・ライ麦などの麦類や、ジャガイモ・トウモロコシなどの穀物類が主食です。東南アジアの国々の中には、バナナやタロイモを主食としている国もありますが、日本と同じようにお米を主食としている国もあります。ところが、同じお米を主食としている国でも、日本では粘りけのあるジャポニカという種類のお米が好まれ、東南アジアの国々では逆に、粘りけの少ないインデッカという種類が好まれているという違いがあります。

ニライカナイより五穀の種子の入った壷が流れついた
聖地とされる「伊敷浜」(久高島)
 はるか大昔、琉球の島々をふくめた日本列島には、稲はありませんでしたから当然、お米は食べていませんでした。それでは、稲が伝わる前の琉球の人びとは、何を中心に食べていたのでしょうか。研究者の間では、タロイモやヤマイモを主に食べていたという意見があります。もしその意見が正しいとすれば、琉球の島々は、東南アジアの文化圏の一角をしめていたことになります。

 大林太良という人が著わした『世界の神話』(日本放送協会)という本の中に、メラネシア(オーストラリア大陸の北西から東南に連なる島々)のニューアイルランド島の神話が紹介されています。

 「この島にまだタロイモやヤマイモ、それに果物もなかった時代、毎日、葉っぱだけを食べ物としていた。ある夫婦に子どもがふたりいた。ある日、子ども達がシガンという動物に誘われて海岸に出た。すると、海の中からランベルングという男(男の神さま?)が現れて、タロイモとヤマイモ、それにバナナを食べさせてくれた。
家に帰った子ども達は、その日もつぎの日も、葉っぱの食事を食べなかった。3日目、父と母はこっそり子ども達の後をつけて行った。子ども達が海から現れたランベルングから、食べ物をこっそりもらっているのを目にした。つぎの日には、子ども達と父や母もいっしょに海岸に行った。そこで、ランベルングからタロイモやヤマイモ、バナナの苗なえを授さずかった」

 島に主食であるタロイモやヤマイモ、バナナが伝わった物語が描かれています。

貝塚からの手紙
沖縄の昔の人びとのようすを知るのに、貝塚というのがあります。貝塚の〝塚〟は、墓という意味もありますから、わかりやすくいえば「貝殻の墓場」といえます。昔の人びとの〝チリ捨て場〟と表現する人もいますが、いずれにしても昔のことを知るための貴重な博物館みたいなもので、文字のない古代人からの手紙ともいえます。


野国貝塚群(貝塚時代後期)の中にある野国貝塚
B地点。沖縄最古の土器である「爪形文土器」が
出土しています。


 貝塚から、昔の人びとが何を食べていたかを知ることができます。どの貝塚からもたくさんの貝殻が出てきます。だからといって、貝の肉が主食だったとはかぎりません。皆さんも知っているように、貝だけでお腹いっぱいにするには、大へんな量を食べなくてはいけません。それに貝は食べたあとは貝殻として残りますが、木の実や植物の葉っぱなどは食べてしまうと、貝塚には残りません。

 琉球列島に残された貝塚を見るかぎり、太古の昔は主食というものはなく、食べられるものは何でも食べていたようです。いわゆる雑食です。主食が農作物になるのは、ずっと後の時代だと考えられています。なぜなら、農業の栽培技術や栽培する面積、そして収穫した作物の保存方法などが、しっかりと確立しないと農作物を主食とすることはできないからです。

 このように、古代人の残してくれた貝塚は、私たちにさまざまなことを教えてくれます。

主食の登場
 日本で主食となったのは穀物です。もちろん、沖縄も穀物が主食となります。

 王国が誕生する前から、琉球の主要な作物として稲・麦が栽培されていました。沖縄の農作物に関する主要な祭りは、「2月ウマチーと3月ウマチー」それに「5月ウマチーと6月ウマチー」でした。それらを合わせて〝4大祭り〟といいます。2月と3月が麦の祭りで、5月と6月が稲の祭
りです。

 稲は王国が誕生する前から沖縄に伝わっていますが、みんながみんな、お米が食べられたわけではありません。稲が伝わってからある一定の期間、沖縄が支配する者と支配される者に分かれていなかった時代は、だれでもお米を食べていたと考えられます。ところがやがて、支配する者が現れてくると、一部の人間だけがお米を独占するようになり、主食にしたと思われます。このようなわけで、農民をはじめとした一般の民衆がお米を主食とすることは、長い間できませんでした。

 それでは、農民をはじめ一般の民衆は何を主食としていたのでしょうか。日本本土では、アワやヒエなどという雑穀です。沖縄も同じですが、第1章や2章でお話ししたとおり、北谷間切野国村で誕生した野國總管が、中国から沖縄に甘藷を伝えた後は、その甘藷が主食になります。

 お米が沖縄の人びとの主食になるのは、アジア・太平洋戦争が終わってしばらくしてからのことです。日本本土だって、時期的にはそれほどの違いはありません。お米が農作物の中でもっとも重要なものであったということは間違いありませんが、国民が日ごろから食べることができたということとは、別のことなのです。

甘藷と民具 その1 掘り棒 甘藷を掘り取る

 掘り棒は、沖縄方ほうげん言で「アサンガニ」といい、八重山では「カノーシ」とよんでいます。南方の掘り棒は、人の丈ほどもありますが、沖縄の掘り棒はかがんで使うほど短く、掘串のことをいいます。その日の食事に必要な分だけ、数個のいもを掘って収穫するのに使う道具です。一株の甘藷全部を掘るのではなく、ほかのいもを傷つけないように、目的のいもだけを掘り取り、後は土をかぶせておいて、いもの成長を見はからってまた掘り取る、ということをくり返すのです。それをつづけた後に、畑全ぜんたい体のいもを収穫します。

甘藷と民具 その2 鎌 いもカズラを刈る
 甘藷を収穫するときにはまず、カズラを刈り取ります。カズラを刈り取らずに収穫しようとすると、作業がとてもやりにくくなります。それで、今日収穫する範囲を決めておいて、前もってカズラを刈り取っておくわけです。農家の人は手なれているので、収穫量を予想し、カズラを刈り取る範囲をあらかじめ決めておくことができたのです。「鎌」には両刃と片刃がありますが、カズラを刈り取るのには片刃の鎌が便利でした。刈り取るときは、地面すれすれに刈り取るのではなく、必ず、地面から数センチ上をで刈り取りました。株がどこにあるかわかるようにするためです。それがわかれば、鍬を打ちおろす場所がわかり、甘藷を傷つけずに収穫できるからです。生活の知恵の一つです。

甘藷と民具 その3 鍬 甘藷を掘る
 いもは土の中にできます。上からは見えません。見えないいもを上から「鍬」をうちおろして土を掘りおこし、収穫します。土の中のいもを切らずに収穫しなくてはなりません。

 鍬には平鍬・二股鍬・三股鍬などがあります。鍬はそれぞれの用途によって使い分けます。いもの収穫には二股鍬が好まれました。いもを切らずにすむ鍬だったからです。

 私(筆者)も小学生のころ、よくいも掘りをしました。いもを切ってしまうと、祖母から叱られました。上から見ても、土の中のどこにいもがあるのかわからないと、ダメだというのです。祖母の掘るいもは、不思議と切れたいもはありませんでした。