2 一世紀のときをこえて
甘藷に魅せられた前田利右衛門
 鹿児島県の薩摩半島の西にある山川町は、琉球王国時代から、沖縄といかかわりのある町です。

 琉球侵攻のために薩摩軍が軍船を出したのも、江戸幕府にむかう琉球使節一行が上陸したのも山川港でした。


沖縄県と深いかかわりのあった山川港
 薩摩藩による侵攻以後、薩摩藩の支配を受けるようになった琉球は、国王(琉球国王)が替わるごとに、国王に就任することを感謝する使節として“ 謝恩使” を、将軍(徳川将軍)が替わるごとに、それを祝う使節として“ 慶賀使” をつかわさなければならなくなります。このような使節をつかわすことを「江戸上り」といいます。皆さんも「江戸上り」のようすを描いた図は見たことがあると思います。

 江戸上りは、1634 年から1850 年までの216 年間に18 回も実施されています。使節としてつかわす人数も、少ないときで60 人、多いときとなると170 人にものぼります。これらの費用はすべて琉球側が負担しなければならず、王府の財政を大きく圧迫することになります。

 下の図を見てわかるとおり、江戸上りの一行の服装は、とても風変わりで、まるで外国人を思わせるかっこうをしています。このように江戸上り一行をわざわざ「異国風」にしたてたのは、薩摩藩と江戸幕府の意向によるものでした。薩摩藩は異国である琉球の支配をまかされたということで、自分の力を示すことができ、江戸幕府にとっては異国を従えているということで、徳川家の権威を高めることができたからです。一方の琉球にとっては、異国風の演出をさせられることによる屈辱感もあったかも知れませんが、中国への進貢をつづけることが可能になり、王国としての体面をたもつことができたので、いさぎよく従ったとも考えられています。


「御免琉球人行列附」 
江戸上りの行列は沿道の人びとにとって間近に見ることのできる外国の姿でした。


 山川町は、このような江戸上りとも深い縁があり、山川町の近くにある枚聞神社には、使節一行が道中の安全をお祈りした扁額が残されており、また、病気などで亡くなった琉球の人びとを葬った墓もあります。そのほかにも、山川町の利永地区には、江戸上り行列からヒントを得たと思われる「利永琉球人傘踊り」という芸能も生まれています。今でも山川の民俗芸能の一つとして保存・伝承され、演じられています。その踊りの歌詞には「物の見みごと事は那覇の町 赤い物売りたばこ売り 白い物売りとうふ売り 黒い物売り紺地売り」というのがあり、那覇の街のにぎわいを詠込んでいます。
枚聞神社 江戸上りの使節一行の安全を祈願した「扁額」が残されています。
1998(平成10)年には、私たちの嘉手納町をおとずれ、野國總管宮で踊りを披露しています。

 話は少し長くなりましたが、琉球王国と薩摩藩の結びつきはいよいよ強くなり、役人はもとより商人、一般の人びとの交流が活発に行われるようになります。

 こうした中、山川町出身の前田利右衛門が船子(船員)として沖縄にやってきます。
 前田利右衛門は、岡児ヶ水(現在の鹿児島県揖宿郡山川町)という小さな村の農家の長男として生まれ育っています。利右衛門の生まれ育ったこの地方は、大昔、開聞岳が噴火したときにつもった火山灰や軽石でおおわれていました。そのため、乾燥しやすく、しかもやせているので、農作物はよく育ちませんでした。また、川もないので稲作もできず、麦・大豆・アワ・ソバなどを主食としている貧しい村でした。生活をささえるために、漁に出る半農半漁の暮くらしをいとなんでいたのです。


「甘藷翁」(前田利右衛門)の功績をたたえて建立された頌徳碑
 そんな利右衛門の目にうつる、江戸上り一行のはなやかな行列は、心に焼きついてはなれません。琉球の地を踏みたいという強い思いにかられ、心がうきたつのでした。利右衛門の琉球行きのチャンスが運よくめぐってきます。琉球国王からの贈り物を受け取るために、山川一の網元の船が出港するというのです。船子として乗り組むことに成功した利右衛門は、あこがれの琉球の地をふむことになります。
1705 年のことでした。

ンムと利右衛門の出会い
 数日かかった船の積み込みの仕事も終わり、上陸を許された利右衛門は、那覇の街をはなれ、田や畑の広がる方へ足をむけました。そして、みずみずしい葉をつけた作物におおわれた畑を見つけるのです。今だかつて目にしたことのない作物でした。畑の持ち主であろうか、主婦とおぼしき女の人が腰をかがめていました。作物の手入れをしているようすでした。

徳光神社 前田利右衛門が祀られています。
 「こんにちは、これは、なんというもんでごわすか?」と、薩摩弁丸だしでたずねました。

 にこやかな笑えがお顔を見せる女の人は「ンム…」と答えると、いきなりひっこぬいて見せたのです。

 驚おどろいたことに、根の方にはいくつもの実らしきものがぶらさがっていました。

 親切な女の人は家の方へとって返し、お盆の上に甘藷をのせて、利右衛門に差し出したのです。そして、しきりに「食べなさい」とすすめるのでした。

 甘藷を二つに割って口に入れてみました。ほんのりとした甘さが口の中に広がります。秋になると山でとれる栗くりのような味がしました。

 「うんまかもんでごわすなぁ」と、ひとりごとのようにいうと、「うん、これだ!」とさけんだのです。

 あこがれの琉球の地を離れた利右衛門の手には、暖かく接してくれた琉球の農家の人たちから分けてもらった甘藷の苗が、しっかりとにぎりしめられていました。

 郷里にかえった利右衛門は、持ち帰った甘藷の栽培にとり組みました。

 火山灰や軽石でおおわれ、乾燥しやすく、しかもやせている土地が、甘藷の栽培には幸いしたのでしょうか、みごとに成功します。甘藷が野国村に伝えられてから一世紀のときをこえて、鹿児島の地に栽培された瞬間でした。

 利右衛門の畑から芽を出した1本のいもづるは、となり村から山川いったいに広がり、やがて鹿児島県全土で栽培されるようになります。山川の人びとは甘藷のことを現在でも「カライモ」とよんでいます。種子島でカライモとよばれているのと同じ理由からです。
 山川の人びとは、自分たちの命を救ってくれることになった甘藷の栽培を広めた前田利右衛門のことを、感謝の気持ちをこめて「甘藷翁」とよび、徳光神社に祀りました。「翁」(おんじょ)とは、薩摩では年よりを尊敬していうことばです。

 現在、徳光神社では毎年、前田利右衛門の徳をたたえるお祭りが行われています。そして、毎年10月には「さつまいもフェスティバル」も開催されています。

前田利右衛門の墓 山川町にあります。

「天川坂(アマカービラ)」の戦い
 現在の嘉手納町中央公民館前の国道ふきんは、アジア・太平洋戦争の直前まで、古い石だたみの道が残っていました。石だたみの道は「天川坂」とよばれ、嘉手納から比謝橋へと通じる坂道となっていました。

 1609 年、今帰仁村の運天港に上陸した薩摩軍は、今帰仁グスクを陥落させた後、読谷を攻略し、陸路と海路に分かれて、王都・首里にせまります。陸路で王都へむかう薩摩軍が、この天川坂にさしかかったとき、嘉手納の女たちがウケーメー(おかゆ)を炊いて坂の上から流し、薩摩軍の侵攻を防ごうとしたといういい伝えが残されています。ウケーメーで軍の侵攻を防げるとは思えませんが、不条理なことにきぜんとして立ちむかう、私たちの先人の気概が伝わってくる話です。

甘藷の過去と未来をつなぐ町ー山川町
 山川町は、薩摩半島の南のはし、鹿児島湾口にあります。霧島火山脈が通り、暖流の影響で気候は温暖で、温泉地としてよく知られています。

 海の玄関口である山川港は、天然の良港で、カツオ遠洋漁業の基地ともなっており、カツオ節製造をはじめとする水産加工業が盛んなところとしても有名です。毎年8月には、水産業の祭りが行われ、それにはカツオ製品やカツオ料理のお店が数多く出店し、カツオの町をアピールしています。

 また一方では、さつまいもの発祥地として、毎年10 月には「さつまいもフェスティバル」が行われています。その中で、さつまいもの過去と未来をつなぐことをめざした「さつまいもフェスタ」も開かれ、バイオ技術などを駆使した甘藷の新たな可能性をさぐり、町の活性化に活いかす試みも行われています。

〝いも〟ということばのイメージ
 いもということばは、日本人にはあまりいいイメージは持たれていないようです。

・いも侍ざむらい…貧びんぼう乏で志こころざしの極きわめて低い武士。

・いも姉ちゃん(いも兄ちゃん)…程度が低くて論じるに足りない。

・いも辞書…先行辞書を切ったり、はりつけたりしてでっちあげた辞書。

・いもの煮えたのもご存じない…世間ふつうの人が知っている程度のことも知らない。

 こうして並べてみると、とるに足りない田舎者というイメージがつきまとっているような気がしますが、いもが支配者階級の食べものではなく、庶民、とりわけ貧しい人びとの常食となったせいかも知れません。