甘藷を伝えたふるさとの先人たち
1 一条のいもづるがもたらしたもの
野國總管と儀間真常
 野國總管が中国から持ち帰った甘藷を、沖縄中に広めたのは儀間真常という人です。

 儀間真常は沖縄の産業の発展に尽くした3大恩人(野國總管・蔡温)のひとりとしてよく知られています。
 1611 年に薩摩(鹿児島県)より木綿の種を持ち帰り、栽培に成功し、沖縄の木綿織おりの普及に力を尽します。1623 年には、中国より製糖法の技術を導入し、沖縄の砂糖づくりの基礎を築きずき、さとうきび産業の発展に大きな功績を残します。

 中部の北谷間切(現在の嘉手納町と北谷町)の野国村で、野國總管という人物によって中国から導入された甘藷という作物が栽培され、人びとのたいせつな食料となっていることが、儀間真常の耳にとどきます。儀間真常は那覇の垣花出身で、儀間村の地頭職(地方をおさめる役人)をつとめる身分の高い士族でした。

 このうわさを聞いた儀間真常は、さっそく出かけることにしました。うわさに高い作物を自分の目で確かめてみたかったのです。

 「ほほう、これがうわさに聞く、甘藷という作物かな?」

 甘藷の手入れに余念のない野國總管は、仕事の手を休めて、声のする方を振り返りました。 そこには見知らぬ男が立っていました。

 「突然、声をかけて相すまぬことをいたした。真和志間切(現在の那覇市)の真常と申す者じゃが、甘藷のうわさがわしの村までとどいておってな。ぜひとも自分の目で見てみたいと思って、こうして出むいてきたのじゃが」

 「これは、これは、遠いところからわざわざおこしくださいまして……」

 ひととおりのあいさつがすむと、ふたりはさっそく甘藷の話に入りました。

 總管は、中国ではじめて甘藷を見たときの驚きと感動、それがどのように栽培され、貴重な食料として人びとの暮らしに役立っているかなど、熱心に語りました。

 「野国村での栽培に成功したおかげで、近隣の農家でも、こぞって甘藷を栽培するようになりました。この甘藷で、人びとを飢えの苦しみから少しでも救うことができるのなら、命がけで苗を持ち出したかいがあります。これでききんにおびえることなく、農家の人たちが仕事に精出すことができれば、これ以上の喜びはありません」

 「總管どの、まことにそのとおりじゃ。わしの村でも、ききんが起こるたびごとに、飢えに苦しむ村人たちがたくさん出る。それを見ているのは、まことにしのびないこと。そこで總管どの、ひとつ頼みたいことがあるのじゃが。わしにその苗を分けてはくださらんか。わしの村でもぜひ植えてみたいのじゃ」

 「そう願えれば、これほどありがたいことはありません。沖縄中に広めたいと心から願っておりました。私ひとりの力では、とてもかなうことではありません。真常さまのお力ぞえがあれば、それを実現するのも夢ではありません。私も力になります。」
 總管から苗を分けてもらった真常は、さっそく、教わったとおりに苗の植えつけを始めました。そして、半年後には、みごとないもができたのです。

 甘藷の栽培に成功した真常は、約束どおり沖縄中に広めるために力を尽します。苗の手配から栽培法まで、自ら出むいて熱心に指導したのです。總管から教わった苗の植え付け方も、いもづるを1尺(30.3cm)ほどの長さに切って、地中にさし込むだけの簡単な方法をあみ出していました。その方がいもづるを丸く輪にして植え付けるよりも手間がはぶけ、しかも根付きが早くなります。



蔡温の肖像画

切手に描かれた蔡温
 真常の努力がみのり、總管が中国から伝えてから15 年後には、甘藷は沖縄各地で栽培されるようになっていました。

 はじめのころは、アワや麦、大豆などの主要な穀物を補う作物として栽培されていた甘藷も、地中で育つために台風の被害をそれほどうけることなく収穫できることから、やがて沖縄の主要な作物としてたいせつにされるようになっていきます。
そして、たびかさなるききんの際に、人びとの命を救うことになるのです。

 資料によると、「薩摩侵攻後の1622 年ころの沖縄の耕地面積は、ほぼ1万町歩(1町歩は約9917 平方メートル)、そのうち田が3千町歩、田からとる米は支配階級の食品で、雑穀が農民の食糧、不作災害には餓死する状態だった。そのころの人口は、12 万2千人余といわれているから、当時の石高では1食のカユさえもおぼつかない。幸いにも、いものおかげで民衆は命をつないだ」とあります。また、琉球王府の三司官(国政をつかさどる三人の大臣)であった蔡温(1682 ~1761 年)は、その著書・『独物語』(1750 年)の中で「前代までの人口は7、8万人であったが、今では20 万人にふえた」と述のべています。

 ある資料によると「1882年には人口は36万人となり、60年後には87万人となり、40 年後には110 万人を突破している」と記しています。このような大幅な人口増加は、甘藷の伝来により人びとの食生活が豊かになったことのあらわれだといえます。甘藷はもともと暖かい気候に適した作物で、夏植えは4~5ヵ月、秋植えは半年くらいで収穫できます。年中作れる甘藷は、やがて沖縄の庶民の主食の座をしめるようになります。沖縄の人びとにとって、これほどありがたい作物はありません。
野國總管が中国からもたらした甘藷は、儀間真常によって沖縄中に広められ、沖縄にとってもっともたいせつな作物になったことがわかります。


 甘藷の伝来については、野國總管が伝える前に、宮古島に伝わったという説もあります。1597 年のことです。しかし、たとえそれが真実だとしても、宮古島に伝えられた甘藷がほかの地域にも広がり、人びとの生活に大きな影響を与えたという記録は、現在のところ見つかっていません。

 野國總管が伝えた甘藷は、これまで見てきたように、沖縄の人びとを飢の苦しみから救い、主食さえも変えてしまうほどの大きな影響を与えたことがわかります。

甘藷畑 年中作れる甘藷は、沖縄の人びとの主食となります。
また、野國總管が中国から甘藷を伝えた後、いろいろな品種の甘藷が中国から伝えられたと、沖縄の古い歴史の本に記されています。1694 年ころになると、皮が赤で肉が白や、皮・肉ともに白、皮・肉ともに黄、皮は赤、肉は黄などの品種が入るようになります。沖縄から日本本土へも、このようないろいろな品種が伝えられたと考えられます。

1600年代の沖縄
 ここで、野國總管や儀間真常が人びとの命をききんから守るために活躍していた時代の沖縄の歴史を、かんたんに振ふり返ってみることにします。

 1400 ~ 1600 年代のはじめのころの沖縄は、独自の王国をきずいて、日本とはちがう政治を行っていました。琉球王国として一つの国家を形成していたのです。琉球王国の支配する地域は、北は喜界島(現在の鹿児島県)から南は与那国島までの広い範囲におよんでいました。そのころの琉球は、首里城を中心として、中国との進貢貿易によって富を築き、独自の文化が花開き、芸能を発達させるなど、平和で豊かな王国として繁栄していました。

 ところが、1609 年琉球王国をゆるがす大事件が起こります。皆さんも知っていると思いますが、薩摩藩(現在の鹿児島県)による琉球侵攻です。

 薩摩藩の藩主・島津家久はおよそ3000 名の兵と100 隻あまりの軍船を、琉球にさしむけたのです。鉄砲隊を主軸として戦いにたけた薩摩軍は、奄美大島・徳之島・沖永良部島・与論島をつぎつぎと攻略し、3月の末には沖縄島北部の運天港( 現在の今帰仁村)に上陸します。かつての山北王の居城であった今帰仁グスクを陥落させた薩摩軍は、さらに軍を南へ進め、4月1日にはとうとう王都・首里へせまります。


『絵本 豊臣琉球軍記』の中に描かれた薩摩軍による琉球侵攻のようす。王国をゆるがす大事件でした。
 武器もとぼしく、戦いの訓練もうけていない王府軍は、多くの戦乱をくぐりぬけてきた薩摩軍の前に、抵抗するすべもなく敗れ去ってしまいます。

 薩摩藩の琉球侵攻の目的は、琉球の中国貿易によって得られる富を手に入れることでもあったのですが、その大きなねらいは、奄美大島を琉球よりゆずりわたしてもらうことでした。また、ときの幕府も、琉球を仲だちとして明(中国)との貿易を復活させたいというもくろみを持っていました。薩摩藩と幕府の利害が一致した結果、琉球への侵攻が起こったともいえます。

 薩摩軍による琉球侵攻以後、琉球は王国という形ばかりの体裁は残りますが、実際には、270 年間の長きにわたって薩摩藩の支配をうけることになります。


薩摩軍が上陸した運天港
甘藷普及の恩人.金城和最(1696 ~ 1765 年)
 沖縄の甘藷の普及に努めた恩人として、金城和最を忘れてはいけません。首里に生まれた和最は、琉球王府時代、農作物の指導者として活躍した人です。

 甘藷が導入された当初は、栽培のし方もおおざっぱで、あまり工夫されませんでした。そのため収穫量もたいへん低く、ひとたびききんが起こると、人びとが食べるだけの十分な量が収穫できなかったのです。和最の努力によって、これまでの栽培法が大きく変わることになります。年1回の収穫が、2回となります。
また土地を深く耕し、緑肥を使用、養分の吸収をよくするためにつるを裏返しにする方法などが取り入れられます。これにより、これまでの2~3倍の収穫量を達成することができるようになります。和最のあみ出した新しい栽培法は、『耕作の書』という本にまとめられています。このような功績が認められ、1764 年には、平民から士族に取りたてられています。

野國總管まつり
 嘉手納町では、毎年10 月の第1土曜・日曜日の両日に野國總管まつりを催し、その前夜祭として、野國總管宮において例祭をとり行っています。

 現在、嘉手納町では町域の83 パーセントが米軍用地として接収され、甘藷を栽培する農地はありません。例祭では、鉢で育てた苗と近隣市町村で収穫した甘藷をお供そなえして、感謝の念を捧げています。

収穫された甘藷(上)と育てられた苗(下)

名政治家・蔡温(1682 ~ 1761 年)
 蔡温というのは唐名(士族の用いた中国名)で、日本名は具志頭文若といい、具志頭親方ともよばれています。中国帰化人の子孫である蔡温は、1708年中国に派遣されたとき、陽明学者と出会い、実学(地理と経済)を学び、2年後に帰国します。帰国した蔡温は、時の国王・尚敬(第2尚氏王統13 代)の国師(教育係)となり、1728 年には三司官に登用されます。

 政治家・蔡温がもっとも力を入れて取り組んだのが、農村地域を活性化させること、植林を奨励して山林資源を確保すること、そして、王府の財政をたてなおすことでした。そのいずれも大きな成果をあげ、沖縄の生んだもっとも偉大な政治家としてたたえられています。その一方では学者としても大きな功績を残し、農作業の手引書である『農務帳』をはじめ、『林政八書』・『独物語』など、数多くの著書をあらわしています。