甘藷のはるかなる旅路
1 地球一周の旅
甘藷のふるさと
沖縄では、甘藷のことをふつう「いも」とよんでいます。いも類の仲間には、サトイモ・ジャガイモ・ナガイモ・ヤマイモのように、皆さんがよく知っているもののほかに、世界には70 ~100 種類以上もあるとされています。

 甘藷はもともと、ヒルガオ科の多年生のつる性植物で、つる(いもづる)が地上にのび広がり、葉が地上の養分を吸収して根にゆきわたらせて、地中で太くなりいもができます。

 「いもづる式」ということばがあります。はじめのものがきっかけとなって、多くのことがつぎつぎと現れるさまを形容することばとして使われます。ちょうど、いもづるをたぐると、つぎつぎといもが出てくるようすをたとえたことばといえます。


日本が中心に見える地球
 数多くあるいも類の中で、甘藷がいつ地球上に現れたのかは、今のところはっきりとわかっていません。しかし、今から5000 年ほども前の中・南米の熱帯アメリカ、現在のメキシコ・コロンビア・ペルー・エクアドルのあたりでは、かなり広く食べられていたことが確認されています。このように、甘藷の歴史をたどっていくと、気の遠くなるほど太古の昔から、人びとの食料として用いられていたことがわかります。そして、甘藷のふるさとが中・南米の熱帯アメリカであることがわかるのです。

南太平洋の島々からヨーロッパへ
 中・南米に誕生した甘藷は、今からおよそ3000 年前になると、多くの人たちの手によって、南太平洋のポリネシア・メラネシア・ニューギニア・ニュージーランド北部の島々へ伝えられます。

 これらの島々に甘藷が伝えられると、それまでの狩や漁を中心とした自然採取の生活から、甘藷を栽培するというような農耕をいとなむ生活に変わっていったと想像できます。当然、食生活にも大きな変化が起こったものと考えられます。

 時代は大きくくだることになりますが、1492 年、今からおよそ500 年ほども前の話になります。イタリアの探検家・コロンブスが未知の大陸(南・北アメリカ大陸)へ到着します。それまで、南・北アメリカ大陸は、ヨーロッパ人にとって全く未知の大陸だったのです。ですから、ヨーロッパ人にとってこの大陸への到着は、大きな驚きであったにちがいありません。


オランダ船の図
(長ながさき崎県立美術館蔵)
 探検家でしかも航海家でもあったコロンブスは、スペインのイザベル女王の援助をうけて、コショウなどの香辛料を求めて、アジアへの国々をめざして航海に出たのです。アジアだと思って上陸した地は、ヨーロッパの人びとにとって、未知の大陸、南・北アメリカ大陸だったというわけです。発見されたこの大陸は、アメリゴ・ヴェスプッチというイタリアの航海士の名にちなんで「アメリカ」とよばれるようになります。思いもよらない未知の大陸への到着に、コロンブス一行は大いに感激したにちがいありません。

 コロンブス一行が第一歩をしるしたのは、現在の南アメリカ北部地域あたりとされています。この地で甘藷と出会い、みやげとして持ち帰り、イザベル女王に進呈するのです。こうして、コロンブス一行によってヨーロッパへ甘藷が伝わることになります。

ヨーロッパからアジアの国々へ
 コロンブスによる未知の大陸への到着から30 年後の1522 年、ポルトガル人マゼランのひきいるスペイン艦隊は、世界一周に成功します。世界一周航路が開かれたのをきっかけとして、ヨーロッパの国々のアジアやアメリカ大陸への進出が始まり、さかんに商業や植民活動をくりひろげます。植民活動というのは、進出した国々を武力で征服し、自分の領土として植民地支配を行うことです。

 このような商業・植民活動に乗じて、船乗りはもちろんのこと、商人や宣教師、探検家などがつぎつぎとアジアの国を訪れるようになります。それとともに甘藷も彼らの手によってインド・インドネシア・フィリピンへと伝えられていきます。

 フィリピンのルソンから中国へ甘藷が伝えられたのは、今から410 年前の1594年のことです。中国人の陳振竜が、甘藷のつるを船の舳綱に巻いて、ひそかに持ち出したといわれています。持ち出した甘藷を、陳は金学曹という地方役人をしている人に献上したのです。

 当時の中国は、農作物が不作で食糧が不足し、人びとは飢えとたたかいながら苦しい毎日を送っていました。金学曹は、飢えに苦しむ人びとを救うために甘藷の栽培を国中に広めるように、懸命に努めたのです。人びとは、金学曹への感謝とその功績をほめたたえる気持ちをこめて、甘藷を彼・金学曹の名前をもじって「金薯」とよぶようになりました。

 それから11 年後の1605 年に、野國總管は中国から私たちの嘉手納の地に甘藷をもたらすことになります。こうして、甘藷は遠い熱帯アメリカからヨーロッパを経へて、東南アジア・中国、そして沖縄の野国村へと伝えられたのです。

甘藷はどこでうまれたの?
 甘藷の発祥したのはどこ?という疑問に答える考古学的な資料として、南米のペルーの遺跡があります。「同遺跡からは、紀元前1000年から1300 年ごろ、サツマイモの乾燥した根や葉、花を描いた綿布、サツマイモをモチーフにした土器が多く発見されている。その出土品の中でも、もっとも古いのは、ペルー海岸のチルカ谷から出土したサツマイモの根である。この炭化したサツマイモの年代は、放射線炭素の測定によって、紀元前8000 年から1万年のものと推定された。このような古い時代からサツマイモは食されていた」と『サツマイモのきた道(小林仁著)』という本に書かれています。

コロンブスの約束
 コロンブスは、スペイン王家と「陸地を見つけた時には自分がその陸地の総督になること、手に入れた金銀、宝石、香料などの10 分の1は自分の分け前とし、残りは国王のものとする」という契約を結んで、アジアをめざし、大西洋の航海に出ました。

 1492 年サンサルバドル、1494 年にジャマイカ、1498 年3回目の航海でトリニダード、現在の南米ベネズエラ海岸に到着し、はじめて南アメリカに上陸したのです。アメリカ大陸への到着により、甘藷やジャガイモ、トウモロコシなどがヨーロッパにもたらされ、農業や人びとの食生活に大きな恩恵を与えました。コロンブスは、自分が発見した地域はインドの一部だと信じたまま、1506 年、55 歳でこの世を去りました。

愛称「野国いも」
 甘藷はいろいろな名称でよばれています。私たちの沖縄では、野國總管によって中国から導入されたということから、蕃藷の中国音である「ハンス」を、そのまま甘藷名として使っていましたが、一般的には「いも」とよんでいました。方言では「ンム」・「ウム」といいます。奄美大島や沖永良部島などでも、沖縄同様に「ンム」とよんでいます。

 沖縄から日本本土へ渡ると、そのよび名もまた変わってきます。伝来の経路や栽培地、あるいは品種などによって、さまざまなよび方をされるようになります。そのよび方も品種をあらわすものから、特徴をしめすものまであります。リュウキュウイモ、カライモ、サツマイモ、九州イモ、長崎イモなどのほかに赤イモ、白イモ、紫イモなどその特徴をあらわす名称まで、実に多彩な名称を持っています。

 このように、甘藷は栽培地や特徴、あるいは利用法によっても、よび方が変わってくる特異な農作物といえます。

 私たちの嘉手納町では、「甘藷伝来400 年祭」を機に、甘藷の大恩人・野國總管の名まえにちなんで「野国いも」という愛称でよぶことを全国に発信しようと考えています。