東アジアの動うごき | |
しかし、進貢貿易を足がかりとして、アジアの国々を結ぶ中継貿易の拠点としての地位をきずき、大交易時代を出現させた琉球の海外交易も、16
世紀の後半になると、しだいにおとろえていきます。 その背景には、中国人が海外に出ることを禁止した海禁策がとかれて、中国商人が、直接海外との交易を行うようになったからでした。また、ヨーロッパの国々のアジア進出がつづくなかで、ポルトガル船が日本に来航して、中国と日本の間の貿易にくわわってきたのです。さらに、豊臣秀吉の朝鮮出兵によって、東アジアの国々の情勢が大きく変化し、それまでの琉球王国をとりまく環境にも変化が現われ、琉球の海外貿易がなおいっそうきびしい状況におかれたのです。 一方、琉球国内では、中国から移り住んで進貢貿易をはじめ、琉球の海外交易で活躍した久米村人の影響が、そのころになるといちじるしく弱くなっていきます。久米村人は、琉球の中にあって中国さながらの生活を送り、かなり後まで日常語に中国語を使うなど独自の環境にありました。しかし、16 世紀の後半以降になると、琉球の中で自立していた久米村からほかの地域の地頭職(間切あるいは村の領主)の役人が出るようになります。そのことは、久米村が、ほかの間切や村と同じように琉球王府の支配をうけ、王国の行政機構の中に組み入れられたことを意味するものでした。 野國總管が、1605年に進貢船に乗こんで中国から甘藷を琉球に持ち帰って、野国村をはじめ周辺の村々に植えたのは、そのような琉球王国の内も外も大きく変わろうとする時代だったのです。 |
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オルテリウス「東インド諸島とその周辺の地図」 沖縄は大琉球(レケオ・マヨル)と記されています。 |
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秀吉の野望と薩摩藩のおもわく | |
野國總管が甘藷を伝え、琉球王国が大きく変かわろうとする時代を、豊臣秀吉がいだいた野望、薩摩藩のおもわく、そしてほんろうされる琉球王国をとおして、もう少しくわしく見ていくことにしましょう。 豊臣秀吉は全国を統一する(1590 年)と、日本・朝鮮・明の3ヵ国を支配する考えを明らかにします。1591 年、薩摩藩の藩主・島津家久は秀吉の命令だと称して琉球にも朝鮮侵略の軍役と兵糧米と名護屋城建築のための負担金を要求してきます。しかし、琉球王府は要求の半分だけを調達して送り、残りの半分は島津氏より借かりておさめ、その返済はしませんでした。 1592 年、秀吉は、軍勢15 万人を朝鮮に侵攻させますが、失敗に終わります。2度目の侵攻も、秀吉の死によって終わりをつげます。秀吉の野望がついえた後、徳川家康が実権をにぎり、1603 年に江戸幕府を開きます。 それより1年前の1602 年に、琉球の船が陸奥国(現在の福島・宮城・岩手・青森)に漂着する事件が起こります。徳川家康は島津氏に命じて、琉球人を送り返します。そして、琉球国王に対して、贈り物をして礼を述べる(聘礼といいます)ようにうながします。ところが、琉球を幕府に従わせ、明との貿易再開に利用しようとする家康のもくろみを見ぬいた琉球側は、その要求にこたえませんでした。琉球を説得する役目をまかされた薩摩藩は、面目をつぶされて激しく怒りました。そして、ついに1605年に将軍・徳川家康に琉球へ兵を出すことを許可するよう願い出て、翌1606 年に許可が認められることになるのです。ところが、薩摩藩のほんとうのねらいは、あいつぐ戦争によって行きづまった財政の建て直しを琉球貿易によって得られる利益に求め、南西諸島を自分の領土にしようとする野心だったのです。 1609 年、ついに薩摩藩による琉球侵攻という、琉球王国がかつて経験したことのない一大事件が起こったのです。 |
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絵本『豊臣琉球軍記』 島津の琉球侵攻のようすを絵本としてまとめたものですが、島津側の一方的な見方で描かれているとされています。 |