3 社会貢献を学ぶ
 三つ目の教えに「社会貢献」があります。よりよい社会を築くためにそれぞれが力を尽すことを社会貢献といいます。産業の恩人として、儀間真常・蔡温と並び称される野國總管が、甘藷の導入によって沖縄だけでなく全国の人びとに恩恵を与えた話は、この本の中にもたびたび登場します。野國總管の果たしたことは、まさしく社会貢献のシンボリック的な意味をもつといえます。

 中国に甘藷が伝わった1594 年から、野國總管が沖縄に甘藷を導入する1605 年までの間には多くの進貢船が中国へ渡り、たくさんの人びとが中国の土を踏んでいます。しかし、野國總管よりも前に、進貢船の乗組員によって甘藷を持ち帰った人がいたという記録はありません。多くの人びとが中国で甘藷の栽培されている畑を自分の目で見て、それを味わったと思います。ところが、甘藷を持ち帰り、沖縄で栽培し、飢えに苦しむ人びとを救うという行動を起こしたのは、野國總管がはじめてでした。とても不思議なことです。

 野國總管が農家に生まれ、農作物に対する知識を持っていたこともその理由の一つだと考えられますが、貧しさの中で飢えと闘う人びとの暮らしを少しでもよくしたいという願いを常に心の中に持っていたからではないでしょうか。そして、世の中の役に立つために、学問をおさめたいという固い信念があったからではないでしょうか。自分の利益よりも、よりよい社会を築き、人びとの役に立つことを成しとげようとする気持ちを優先させた、野國總管の行動があったからこそ、人びとは總管のことを敬愛をこめて「甘藷大主」とよびたたえたのです。

 嘉手納中学校の校歌の中に「總管のいさおしうけて 育ちゆく」という歌詞があります。400 年前に生きた野國總管の教えは、今を生きる私たちに、普遍(広く行きわたること)の真理として語りかけています。

 野國總管の存在に大きな誇りを感じ、その精神に限りない敬愛の情をいだくときに、野國總管は生きる師表(手本となる人)となって、その遺徳とともに私たちの心の中に生きつづけるのです。