2 甘藷の名まえの由来 |
甘藷の品種は、実にたくさんあります。沖縄県だけでも、かるく200種はこえるようですが、正確な数はわかりません。長く栽培されるものもあれば、栽培されなくなっていつの間にか消えてしまったものもあります。実際、農家では自分の土地にあう甘藷を選んで植えます。それに好みによって、目的によっても品種を選びますので、1軒の農家で栽培する品種は、どんなに多くても10
種以上にはならないと思います。また同じ甘藷でも、地域によって名まえが違うこともあります。 生活に密着した農作物である甘藷に、人びとがどんな思いをたくして名まえをつけたのでしょうか。いくつかの甘藷の名まえの由来をたずねてみることにします。 |
又吉いも |
別名、又吉あっこんともいいます。あっこんは八重山の方言です。明治のころ、読谷村に又吉真徳という人がいて、ある日、畑から持ち帰ったカズラの中に、ほかのカズラとは違う葉っぱをつけたものを見つけました。それを植えてみると、ほかの甘藷より早く収穫できることがわかりました。それがきっかけとなってつぎつぎと広まっていきます。最初に見つけた又吉真徳の姓をとって「又吉いも」とよばれるようになったのです。 本土では、寒さのために甘藷の花はめったに咲きませんが、暖かい気候の沖縄では花が咲きます。そのため、自然交配による新しい品種が誕生したりするのです。 それを、又吉がめざとく見つけ、栽培したことからこの品種が誕生したというわけです。 |
いなよういも |
「いなよう」というのは方言で「いうなよ」という意味です。沖縄のある村に伝わる話です。 畑から収穫したいもを洗うために桶に入れたところ、全部浮いていました。ふつう、いもは水に入れると沈みます。ダメないもだけが浮くのです。収穫したいもが水に浮いてしまうのでダメなものと思い、近所で馬を飼っている人のところへ持っていき、「馬のエサにするとよい」といって、全部あげてしまいました。 もらったいもを馬にやるついでに、自分でも食べてみると、何とこれが実にうまいのです。しかし、くれた相手がおいしいものだとわかってしまうと、もうもらえなくなります。そこで、そのことは黙っておいて、いもをもらいつづけました。そして、ほかの人には「おいしいいもとはいうなよ」と口止めして、分けてあげました。それがどんどん広まっていきました。そのおいしいいもには「いなよう」という名まえがついたのです。 これとよく似た話が北海道にもあります。男爵の身分の人が、ジャガイモ畑で変わった種類のジャガイモを見つけ、屋敷に移して植えて、大切に育てていました。 それを下男がこっそり盗み出し、食べてみると実においしいのです。そのジャガイモを、友人たちに「男爵にはないしょだよ」といってつぎつぎとあげました。こうして広まったので、このジャガイモには男爵という名まえがつくようになり、「男爵いも」とよばれるようになりました。 |
古知屋いも |
古知屋というのは宜野座村字松田の古いよび方です。その古知屋に名嘉真という人が住んでいました。 ある日、海岸で芽の出た甘藷を見つけて持ち帰り、自分の屋敷に植えてみました。その甘藷は、収穫も早くでき、しかもたくさんのいもがついていました。そのうえ、肥えた土地でもやせた土地でもよく成長し、台風や寒さにも強いということで、評判となり、各地に広まっていきました。人びとは、古知屋から広まったということで「古知屋いも」とよぶようになりました。 |
開拓いも |
1945 年、沖縄戦が終わった後、苦しい生活からのがれるため外国に移住する人がたくさんいました。遠い外国でなく、八重山の西表島や石垣島に開拓移民としてとして入植する人びともいました。このような中、石垣島野の底にも開拓団が入ることになり、その中の栄地区の開拓団のひとりとして、沖縄島出身の照屋寛得という人が参加することになります。照屋は、開拓団の一員として出かけるときに、島尻の米須村(現在の糸満市)にいる親戚から南洋いもをもらい、開拓地の栄にさっそく植えつけたのです。それが良い甘藷だという評判をよび、つぎつぎと広まっていきました。もともとは南洋いもという名がついていたのですが、広まったのが開拓の時期と重なっていたために、いつの間にか「開拓いも」という名になってしまいました。 |
狩俣あっこん |
西表島の古見という村は、豊年祭が有名です。アカマタ・クロマタという神さまが出現することで、よく知られています。この古見村にも、戦後になって開拓団が入植しました。開拓最初の農作物は、どこでも甘藷を植えました。宮古から開拓のために入植した狩俣という人が、「宮農1号」という甘藷を古見に広めました。狩俣という人が持ってきた甘藷ということで、「狩俣アッコン」とよばれるようになります。 アッコンというのは、八重山方言で甘藷のことをいいます。 |
オーゼーアンガー |
石垣島白保での話です。白保にオーゼーという人がいました。オーゼーは奄美の人と結婚し、奄美大島から白保にはない品種の甘藷を取り入れ、白保で栽培をはじめました。この甘藷のことを、白保の人たちは、オーゼーの名をとって「オーゼーアンガー」とよぶようになりました。アンガーというのは白保の方言で、甘藷のことをいいます。 |
真栄里いも |
高嶺村真栄里(現在の糸満市真栄里)に、伊敷三良という人がいました。オランダ種の甘藷畑の中に、2本だけ変わった品種を見つけ、たいせつに育てたのが真栄里いもです。自然交配によってできた、新しい品種の甘藷でした。1905
年のことです。とてもおいしいいもとして知られています。見つかった村の名をとって「真栄里いも」とよばれていますが、「ハナウティー」ともよばれています。 |
暗川いも |
読谷村の楚辺で見つかった甘藷です、おいしい甘藷の一つとして知られていますが、1870年ごろに見つかったと伝えられています。楚辺にはクラガーというよく知られた井戸があり、この井戸の名をとって「クラガーいも」と名づけたようです。 |
坂下いも |
真和志村坂下というのは、現在の那覇市坂下のことです。真和志村は那覇市と合併して、村名はなくなりました。話は真和志村時代のことです。真和志村に住んでいた新里鶴千代という人が見つけて育て、広めた品種とされています。見つかった村の名をとって「坂下いも」とよばれています。 |
佐久川いも |
読谷山の比謝村(現在の読谷村比謝)に住んでいた佐久川清助という篤農家が、8年の歳月をかけて生み出した新品種の甘藷です。泊黒・クラガー・名護ウランダーという3品種の甘藷を混ぜ植えしている畑から、自然交配によって誕生した30
品種の甘藷を栽培し、どんどんしぼり込こんで、8年ほどかけてつくりあげたものが、この佐久川いもです。ひとりの農民の努力が実って、新しい品種をつくりあげたのです。1894
年のことです。新品種の甘藷は、佐久川清助の姓をとって「佐久川いも」とよばれています。 |
沖縄百号 |
沖縄百号は、1934 年沖縄農業試験場で、松永高元という人が作り出した品種です。それまで甘藷の新しい品種というのは、自然交配によって偶然にできたものばかりでした。それを畑で見つけてたいせつに育ててきたのです。沖縄百号は、自然交配によって生まれたものではなく、意図的に、人工的に新しい品種として作り出されたものです。 七福という品種と潮洲という品種を人工的に交配させたのです。沖縄では大へん人気のある品種となりました。それまでは「佐久川いも」が沖縄県の奨励した品種だったのですが、沖縄百号が誕生すると、新しく沖縄県の奨励品種となりました。 後には、本土でもさかんに栽培されるようになりますが、不思議なことに「でんぷんが少ない」、あるいは「味が悪い」などといわれ、あまり評判はよくなかったようです。これから見てもわかるように、甘藷は同じ品種でも、気候や植える土壌によっても、味に大きく影響します。栽培が容易だといわれる甘藷も、デリケートな面を持っているのです。 沖縄百号は、中国にも導入されました。中国革命の成功を祝して「勝利百号」とよばれ、大へん人気のある品種だったということです。 |
さつまいも |
本土では、甘藷のことを「リュウキュウイモ」とよぶ地域、「さつまいも」とよぶ地域、「カライモ」とよぶ地域などがあります。その地域がどこから甘藷が伝わってきたかを知るうえで、重要な手がかりを与えてくれるもので、とても興味深いことです。現在は「さつまいも」というよび方がどんどん広まっているようです。鹿児島県の旧藩時代のよび方「薩摩」(さつま)から伝わった甘藷ということで「さつまいも」とよばれているのでしょう。 |
甘藷と八重山開拓 |
沖縄は戦前から外国移民の多い県として知られています。戦後もたくさんの人たちが、ぞくぞくと南米に移民として渡って行きました。ほとんどが農業移民でした。 外国ではなく、八重山にも農業開拓を目的として、沖縄島や宮古島からつぎつぎと開拓団を組織して渡って行きました。そして、牧場跡やジャングルを切り拓いていったのです。先発隊は家族を残したまま、先に入植して、まず住宅建設と開こんを手分けしてやりました。畑にはすぐに甘藷を植えつけました。半年後、甘藷の収穫時期になると家族をよびよせました。 しかし、中には家族もいっしょに入植した開拓団もありました。甘藷の収穫時期をむかえる前に、食糧が底をつき、開拓団は大へんな苦労をしいられることになります。甘藷が主食であった戦後間もないころのことです。 |