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28.近代沖縄における甘藷の品種と改良(2)
自然実生利用による品種改良の成果として、1918(大正7)年の品種別作付け割合では、真栄里42.5%、佐久川14.4%、長浜9.3%、暗川7.4%、羽地台湾6.3%、坂下4.2%この6品種だけで84.1%を占めている。その他の自然実生からの育成品種を加えると、これだけで全作付け面積の90%以上を占めた。 1919(大正8)年~1926(昭和元)年に沖縄県では芽条変異や実生苗、導入品種でできた在来品種のほとんどが分系育種法にかけられ優良品種が選抜された。交雑育種法も並行して続けられ、大正時代には松永高元氏らによる名護和蘭と暗川の交配により沖縄1号が育成された。以下沖縄7号まで7品種が大正7年交配の実生から、大正14年交配の実生からは沖縄八号が選出された。

 1972(昭和2)年からは、新しい育種組織へと移行し、その組織のなかから生まれた新品種は沖縄100号から始まることとなった。その後、1934(昭和9)年に松永高元氏が日本史上に燦然と輝く大品種「沖縄100号」を育成した。

 彼は、1892(明治25)年12月28日鹿児島県に生まれ、1965(昭和40)年10月21日に亡くなっている。1914(大正3)年に鹿児島高等農林学校農学科を卒業し、1916(大正5)年5月に沖縄県立糖業試験場の技手を拝命した。

 以来1945(昭和20)年までの沖縄農業振興に尽くした。農林省は1931(昭和6)年から人工交配による品種改良事業を沖縄県農事試験場に委託した。以後、昭和14年までに彼が取り扱った交配花数は、423,000余花で結実蒴数は112,000余種に及んだ。そのうちの大部分を新品種育成材料として農林省に送った。沖縄県の試験場で播種して育成材料に供用した個体数は累計で2,695系統だった。沖縄100号は昭和3年の交配によって育成したもので、その時の交配組み合わせ数は約61組、交配花数22,524花、結実蒴数3,313種だった。そのなかから、「七福」を母とし、「潮州」を父として交配したものが、714花で、生産蒴数193顆あり、これらを新品種育成材料として昭和8年まで、生産能力や各種の特性について選抜試験をした。彼は、5ヶ年間の苦心の結果「沖縄100号」を選出した。沖縄100号は、選抜された優秀な6品種のうちから多収常食用品種として認定し、昭和9年5月に農林省の承認と「沖縄100号」の命名を受けて沖縄県の奨励品種に決定された。その後、沖縄100号の名は九州地方、関東地方は勿論のこと全国の芋の産地の農民なら知らない者はいないといわれるほど、普及した。中国の福建省までも、優良品種として普及した。その他に、護国藷、農林1号、農林2号などの品種の種子は松永氏等の交配採取によるものだった。

 また、忘れてはならない品種として、我謝栄彦氏が沖縄県立農林学校在任中に「又吉」と「暗川」の交配により、比謝川1号、比謝川2号を育成した。この品種は、三ヶ月収穫の超早生で美味のため戦時中から戦後にかけて重宝された。
(文:宮平 友介)