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23.沖縄における甘藷の名称・種類(1)
 1593年に明国福建省南安県の邑人陳振龍は、フィリピインのルソンからその地域一帯に栽培されていた朱薯を導入した。朱薯は当時蕃国(外国)から伝わったので蕃薯と呼ばれ、また、皮の色が紫なので、朱薯とも呼称された。福建巡撫(長官)の金学曽は行政命令によって、朱薯を福建省全域に栽培させ、その普及に成功した。救荒作物として、多大な効果をおさめた甘藷(朱署)は金公(金学曽)の姓をとって金薯とも呼ばれるようになった。陳振龍や金学曽は後世「先薯祠」という祠堂に甘薯栽培の恩人として祀られた。

 おりしも進貢船の總管役として福州に滞在していた野國總管は、1605年に明国福建省から琉球国北谷間切野国村にその蕃薯をもたらした。その甘藷の名称は、『麻姓家譜』六世の唐名麻平衡、和名儀間ウェーカタ親方眞常、童名眞市の西暦1605年の記録や『琉球国由来記』『琉球国旧記』では、「ハンス」(蕃薯の方音)となっている。
 1713年11月に成立した『琉球国由来記』の事始ケン乾の動植門には、蕃薯について次のような記録がある。

 蕃薯には、数種類がある。一種は、皮が赤で実が白い。一種は皮も実も白である。  一種は皮も実も黄色である。一種は皮は赤く実は黄色である。

 以上のことからして王府に旧記座が置かれ、各地に旧記由来記を提出させて編集された『琉球国由来記』成立の頃には、すでに上記の4つの品種が普及していたことがわかる。

 『麻姓家譜』九世の唐名麻治定、和名儀間親チン雲上眞周、童名思武太の西暦1691年の記録によると、小禄間切儀間の住人船越筑登之が渡唐した時に、蕃薯を注文し、その時、もたらされた甘藷について「1692年に曾祖父眞常の勳労が広く知られているのを見てこの品種のことを上申して記録に載せることにした。今、唐芋と呼ばれている種類が、この蕃薯である」と記録されている。唐薯はトウイモともカライモとも読まれるため、1698年に琉球王尚貞から種子島久基に贈られた甘藷が「からいも」と呼ばれ、熊本県では戦前に甘藷のことを一般的に「といも」と呼称していたのは、その「唐芋」に由来があるかも知れない。ちなみに種子島久基を祀る栖林神社は「カライモ」神社ともよばれている。

 『琉球国旧記』の巻之四、事始には「黄蕃薯は康煕三十三年甲戌(1694年)に、ある人が、ビン?(現在の福建省)から持ち帰ってきた。そして各処に分け植えさせた。その蕃薯は従来の物とは異なっていて、別の品種である。風雪に耐える性質があり、おとろえることはなく、もっとも人民のためになることができた(翁氏家譜に見ゆ)」と記載されている。翁姓家譜(四世伊舎堂親方盛富)によると伊舎堂親方は1694年小唐船才府(進貢船の役職名)となって、福建に赴き作事の新城筑登之と富名越筑登之を使わし黄色の蕃薯を手に入れた。この蕃薯は風雪に良く耐える品種で、人々は皆その利を得たと記載されている。

 以上のように琉球国旧記・由来記編纂ころまでには、野國總管以来数種の品種が、前記の方々等によって沖縄本島に導入されたのであった。
(文:宮平 友介)