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20.顕彰碑の碑文に表れる野國總管像
 野國總管を顕彰する記念碑は、供養碑や總管野國由来記を刻銘した墓碑を除くと、現存しているもので3点が確認できます。その記念碑の形態や碑文の内容を検討してみると、それぞれの時代において野國總管がどのように解釈され、いかに顕彰されていたかがうかがえます。今回は、それらの碑文の内容をみながら、野國總管の顕彰の変化について考えてみましょう。

 現存している野國總管の顕彰碑でもっとも古い時期に建立されたものは、大正末期に沖縄史蹟保存会が建てた「産業界之恩人野國總管之墓」です。同顕彰碑は、沖縄戦で被弾して3つに切断されていたのを戦後に修復したものですが、裏面がえぐられているため碑文の全文を確認することはできません。現在、米軍施設のカデナマリーナの南側に位置する、野國總管の墓地の一角に移転されて建立されています。沖縄史蹟保存会が、沖縄を代表する7偉人の一人として野國總管を取り上げて顕彰した碑であり、大正期の野國總管の功績を考えるうえで大きな意味をもつものです。

 2点めは、那覇市奥武山公園内の世持神社境内に、昭和13年5月に建立された「産業恩人記念碑」です。野國總管が世持神社の祭神になった経緯については前回でふれた通りですが、その時に建立された記念碑には、蔡温や儀間真常とともに、蕃薯の苗を中国から持ち帰って栽培し、島民を救った偉人として野國の功績を讃える碑文が刻銘され、顕彰されています。

 3点目は、兼久の野國總管の墓地の一角にあり、1点めの顕彰碑のすぐ傍に建立されている「甘藷の恩人頌徳碑」です。その顕彰碑は、昭和18年6月に沖縄県農業連合会創立30周年記念事業として、野國の功績を讃えその報恩に感謝する頌徳碑として建立されたものです。その碑文は、戦時体制下の沖縄において野國總管がどのように顕彰されていたかを知るうえで興味深い内容を提示しています。碑文の前半では、これまで同様に野國が導入した甘藷が沖縄を救済したことを讃え、後半で戦時下の野國の遺徳に感謝する理由として次のように記しています。決戦下で甘藷は食糧としてだけでなく「高度工業用原料(アルコール)トシテ一躍軍需品ノ位置ヲ獲得」したが、それは「甘藷先生」の「救国ノ至情」に基づく「犠牲的精神」によるもので、その精神に対し県民は報恩感謝の誠を捧げるものであると記されています。その碑文内容は、野國總管が戦時下の国民精神作興のための象徴として解釈され位置付けられたことを表しており、野國の実像とは別に、当時の時代状況を反映した形で顕彰されていた事実を示しています。
(文責・屋嘉比 収)