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19.世持神社の祭神としての野國總管
 野國總管の功績は、大正期には顕彰碑や墓碑によって顕彰されるようになりましたが、さらに昭和期に入ると新たに神社創建による祭神として祀られるようになります。今回は、その経緯について記したいと思います。
 神社創建の経緯の背景には、大正期における記念碑の建設計画がありました。大正9年、仏教連合会を中心に野國總管と儀間真常を顕彰する「諸蔗謝恩碑建設期成会」が結成され、記念碑建設のために寄付金を募りましたが、実現には至りませんでした。その後、昭和期に入りますと、沖縄砂糖同業組合が創立20周年にあたる昭和9年に向けて、「砂糖の大恩人」である儀間真常の謝恩碑建設が計画されます。その謝恩碑の建設計画に対して、昭和8年8月に結成された沖縄文化協会が「産業恩人の為めに神社を創建し子々孫々祭典を執行して其の鴻恩に報い奉る」ために、儀間眞常と野國總管を祀る神社創建の計画を提起いたします。さらに、沖縄砂糖同業組合と沖縄県農会の賛同を得て、建設協議会が開催され、計画が推進されることになります。

 そして、昭和8年12月に「神社設立発起人会」が結成され、その際、沖縄文化協会の島袋源一郎から、沖縄産業の発展に功績のあった蔡温の祭神も新たに提案され、同神社に三大恩人として儀間・野國・蔡温の合祀が決定されました。さらに、昭和9年には井野知事を会長とする神社創立期成会が結成され、島袋の提案により神社名を「世持神社」と決定し、昭和10年3月にはその建設予定地として那覇市奥武山公園内が、那覇市会で承認決議されるに至ります。しかし、内務省から、神社創設の祭神は正三位以上でなければならないと不許可となり、結局は「郷社」として、贈正五位具志頭文若蔡温を正座、儀間・野國を左右座とすることで認定され、昭和12年2月28日に世持神社創立の許可が正式に降りることになりました。それにより、野國總管は沖縄県の郷社である世持神社の祭神として祀られることになったのです。その建設費には、概算として約31,995円が計上され、寄付金として非製糖農家一戸当り20銭、また維持基金2万円として砂糖一挺当り1銭が徴集され、さらに神社供進金として県費、県農会費および各市町村に献納が割り当てられました。

 産業界の大恩人・野國總管は、戦時下での県民の皇国意識を発揚する時代状況を背景に、沖縄産業への謝恩の形式を取りながら、世持神社の祭神として献納され神格化されることにより、国民精神を作興する象徴としても位置付けられるようになりました。 
(文責・屋嘉比 収)