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16.教科書が伝える野國總管の功績と顕彰
 野國總管の功績は、17世紀後半から18世紀中頃にかけて、家譜を始め、琉球王府の正史や修史によって認知されましたが、一般に広く知られるようになりますのは近代に入り明治時代になってからだといえましょう。それは、1879年の琉球処分によって沖縄県が設置され、近代の学校教育制度が導入されて、沖縄県において児童の就学率が漸次増加していった明治中期以降のことだといえます。とりわけ、その学校教育で使用される教科書のなかに、「野國總管の功績」を顕彰した文章が収録されたことが大きな影響を及ぼしたと考えられます。

 小学校の教科書は、1903(明治36)年に小学校令が改正され、翌年4月から国定教科書制度が施行されますが、それ以前は検定制度で、文部省編纂による全国一般の『読書入門』(1886年)と『尋常小学読本』(1887年)が使われていました。しかし、日本本土と気候、風土、言語などが異なる沖縄県と北海道では、全国一般の教科書では不都合が多いということで、文部省が両地域だけに特別用教科書の編集を行い、沖縄県では郷土の風物や代表的人物を教材にした『沖縄県用尋常小学読本』が発刊されました。その特別編集の教科書は、1898年から国定教科書が採用されるまでの5年間使用されましたが、その中で沖縄の偉人の一人として野國總管が「蕃藷大主」として取り上げられています。同教科書で、野國總管は中国から蕃藷の苗を持ち帰って沖縄を救うとともに、蕃藷が薩摩を経て全国に広まり「蕃藷大主のめぐみ」は「実に、大なり」と記述されています。野國總管が持ち帰った蕃藷のめぐみが沖縄だけでなく全国を救ったとの記述は、当時の沖縄が全国から異質な地域とみられていた時代背景を考えると、その野國總管の功績を顕彰することで、沖縄の学童に日本国民の一員としての自負心と誇りを持つのを促す意図があったものと想像されます。

 そして興味深いことですが、野國總管の功績が教科書に収録されて顕彰される事例は、その時だけではありません。戦後沖縄で最初に編集・配布されたガリ版刷り教科書で、7年生(当時は8・4制)の読み方の教材に、産業の恩人として野國總管の取り上げられています。当時は、戦争による壊滅から「新沖縄の建設」として戦後沖縄の復興が叫ばれていた時期であり、「進取の気概」で沖縄に貢献した野國總管の功績が、あらためて注目されて教科書に収録されたのです。このように野國總管の功績は、沖縄の時代の転換期や節目節目で、教科書を始め記念碑などで様々に顕彰されており、その意義に注目し考察することは今日においても重要な意義を持っています。
(文責・屋嘉比 収)