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15.野國總管の功績を伝える史資料
 野國總管について広く知られるようになったのは、その功績を讃えた記述が家譜を始め、琉球王府の正史や修史、さらに碑文や史蹟などで広く顕彰されたことが大きな影響を与えました。今回はそれらの史資料で、野國總管がどのように記述されているかについて見ることにしましょう。

 現在のところ、野國總管の功績を記したもっとも古い史資料として確認できるのは、1690~1700年に六世儀間真常の記録として編集された「麻姓家譜」の中にある記述です。その記述内容については、前回言及したのでここではふれませんが、蕃薯を琉球に広めた儀間真常の功績を讃える家譜の記述の中で、蕃薯の鉢植えを中国から持って帰ってその栽培法を真常に教えた人物として野國總管の功績が記されています。野國總管その人が直接取り上げたのではなく、他の士族の家譜の中で間接的に記されている事実は、当時の野國總管の身分を考えるうえで示晙的です。

 次に、野國總管について記した史資料は、『琉球国由良記』(1713年)の中の「蕃薯」の項の記述にみられます。『琉球国由来記』は、首里王府が編纂した琉球王国時代の最大最古の体系的地誌で全21巻からなり、王城の公式行事や官職制度から各地域の御嶽や祭祀まで収録された文献です。その編集事業は、1703年に琉球の<旧由来記>をただす目的で、王府に「旧記座」が置かれ、旧記奉公が任命されたときまでさかのぼると言われています。その記述内容は前述の「麻姓家譜」の記述に基づいて書かれていますが、王府が編纂した修史事業の中では初めて、野國總管の功績を認める記述がなされ、それに収録された意義は大きいものといえましょう。同じくその意義は、野國總管の功績を記したその後の『琉球国旧記』(1731年)の記述においても当てはまります。『琉球国旧記』も首里王府が編纂した修史事業の一つであり、先の『琉球国由来記』の改訂版としてそれを簡略して漢文に書き改めた地誌で、そこでも野國總管の功績を顕彰され記述されています。

 さらにその野國總管の功績を讃える記述は、琉球王府の正史である『球陽』(1745年)に収録されることになります。その記述内容も前二者と同様に「麻姓家譜」の記述に基づいていますが、新たに野国港の西地の洞中に石堂を創建して「野國の神骸」が奉安されたことが記されています。

 このように、野國總管の功績は琉球王府の正史や修史に記載されたことで、王府によって公認されたと理解することができましょう。前回、野國總管の新家譜の下賜に対する認容の背景に、17世紀後半の摂政・羽地朝秀の大改革による王府機構の整備や身分制の再編確立が大きな影響を及ぼしていると指摘しましたが、その野國總管の功績が顕彰され琉球王府の正史や修史に記載された背景にも、王府機構の整備や身分制の再編確立が大きな影響を及ぼしていると思われます。
(文責・屋嘉比 収)