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14.野國總管の顕彰と時代背景
 野國總管、その人については、いつ生まれ、いつ亡くなったのか、何のためにどのような役割で中国に渡ったのかなどの基本的な事項を示す史料もなく、その全体像はほとんど明らかになっていません。ただ、野國總管という人物が中国に渡って初めて芋を持ち帰り沖縄各地に広めたという話が、子孫を中心に地域で語り継がれていました。その話が広く一般に知られるようになったのは、子孫や地域の人々の粘り強い働き掛けにより、野國總管の功績を讃える記述が家譜や正史、碑文遺蹟などで広く顕彰されたことが大きな力となりました。

 今のところ野國總管の功績を記したもっとも古い資料は、六世儀間真常の記録として1690年~1700年に編集された「麻姓家譜」の中にある記述です。その記述には、1605年に中国から蕃薯を鉢植えにして持ち帰った總管野國から、葛(かずら)を輪にして植える栽培法を教えてもらった儀間真常が、それを広く原野に植えて国中の五穀を補い人々を救ったので、その野國の恩に報いるよう祭礼を行っている話が記されています。その記述において、初めて野國總管の功績が公的に認知されるようになり、それと同様の記述が『琉球国由来記』(1713年)、『琉球国旧記』(1731年)、そして琉球王府の正史である『球陽』(1745年)の中にも記載されるようになりました。そのように琉球王府に正史や修史に記載されたことは、野國總管の功績が王府によって公認されたことを示しています。一方地元では、地頭の野国正恒が1700年に野國の功績を讃えて墓を移し新築し、その後1751年に子孫(六世)が墓前に「總管野國由来記」という碑文を建立し顕彰しています。

 このように野國總管の功績が顕彰されるようになった背景には、17世紀後半の摂政・羽地朝秀の大改革による王府機構の整備や身分制の再編確立が大きな影響を及ぼしていると考えられます。1689年に系図座が設置され、士族層(官人、役人層)には系図(家譜)が求められ、それによって土・農身分の確立が行われました。さらに、その譜代家譜の編集の際に進貢船の下役や田舎住まいのため訴え遅れや、勲功や献金によって士族となった新参家にも、1712年に新参家譜の編集が認められるようになりました。実は野國總管も、その子孫が野國の功績を公認して士籍を賜るように二度にわたって新家譜の下賜の申し出を行い、その結果1765年に野國總管の功績由来を口書(序文)に記した直系だけの新家譜の下賜が認められたのです。さらに、その後子孫から總管だけの氏と名乗を記す許可の申し出がなされた、24年後の1789年に許可されて、野國總管の氏は總で名乗は蕃初(はんしょ)と命名され、和名は野國蕃初、唐名は總世儲(そうせいしょ)と記すようになりました。
(文責・屋嘉比 収)