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13.甘藷先生 青木昆陽
 野國總管が導入した甘藷をサツマイモの名称で日本全国に広めたのが青木昆陽です。彼は、江戸の出身で江戸中期の蘭学者であり、幕府の書物奉行(江戸幕府の職名、江戸城内紅葉山文庫の図書を管理する)でもありました。

 江戸時代の頃から彼のことを甘藷先生とも呼んで庶民の間で親しまれてきました。彼のことをなぜ甘藷先生と呼んで人々の尊敬をうけてきたかをたどってみましょう。青木昆陽、通称文蔵は、江戸商人魚商の一人息子として生まれ、幼少の頃から学問好きな彼は京都で蘭学(オランダ語による西洋の学術を研究する学問)を学びました。3年後、すっかり蘭学を会得して江戸に戻った昆陽は、魚商をやめた両親を引き取り、寺小屋(江戸時代の庶民の教育機関。主に読み、書き、そろばんを教える)で学問を教え、家計を支えました。その頃、享保17年(1732年)の夏、西日本一帯を稲の害虫、稲虫が発生し、ちょうど、刈り入れ前の稲穂を食い尽くし、飢えに苦しむ人々が続出しました。これが世にいう「享保の大飢饉」であります。

 その時、昆陽は飢えに苦しむ人々を救う道はないものかと、いろんな書物を読みあさり、とうとう中国の農業書に出会い、中国では飢饉の際の非常食として甘藷を栽培していることを知り、甘藷の栽培法など「蕃藷考(ばんしょこう)」(1735年刊)という書物にまとめました。この書で甘藷の効用について「*簡単に栽培ができる *土の中にいもができ風や雨に強い *種芋からたくさんのいもがとれる  *穀物の代わりになる *お酒もつくれる」ことなどが記されています。やがて、この「蕃藷考」は、あのテレビで有名な江戸の名裁判官である江戸町奉行・大岡越前守忠相の知ることとなり、彼は、直ちに8代将軍徳川吉宗に甘藷の効用を説きました。それを聞いた吉宗は、すぐに甘藷の栽培を命じました。こうして、昆陽は、甘藷栽培の責任者に任じられ、吉宗の命で薩摩藩から取り寄せた種芋1500個が昆陽の元に届けられました。

 ところが、いざ栽培にとりかかる段になると、甘藷には毒があるとかのうわさがあり、反対する人々も現れてきました。それに追い打ちをかけるように、江戸の寒い気候のため種芋に霜が降り大半を腐らしてしまいました。残った種芋500個を江戸の小石川の幕府の薬草園と千葉の幕張、九十九里の畑で栽培をはじめました。昆陽の苦心が実って、享保20年(1735年)11月、江戸ではじめて甘藷の栽培に成功し、4400個の甘藷が収穫されました。

 こうして、甘藷は救荒作物、いわゆる荒れ地のやせた土地でもたやすく栽培でき、飢饉に備える格好の作物として、サツモイモの名称で日本各地に広まり今日に至っております。
(文責  伊波 勝雄)