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12.芋代官 井戸平左衛門
 石見国(島根県)にも甘藷の恩人として知られた人がいます。それは芋代官と呼ばれた井戸平左衛門その人であります。彼は1671年に江戸に生まれ、60歳になった1731年、石見国の代官(江戸幕府の役人で地方を支配する最高責任者)に任命されました。

 平左衛門が着任すると同時に農民たちから訴えられたのが、凶作続きで多くの年寄りや子ども達が餓死し、年貢(幕府・大名が農民に課した租税)をへらして欲しいという要求でした。この訴えをなんとかしたいと考えた彼は、金持ちの商人たちにお願いし、お金を寄付してもらうことにしました。このお金で平左衛門は米を買い、飢えた農民たちに食べさせました。しかし、この方法だけでいつまでも農民たちの生活を救うことができずにさらに悩みは続きます。

 享保17年(1732年)、代官所近くの栄泉寺(えいせんじ)に一人の旅の坊さんが滞在しました。平左衛門は、この坊さんから「薩摩国ではサツマイモをつくり、餓死する人も少ない」ということを聞き、早速幕府の許しを得て、種いもを取り寄せました。それを近隣の百姓たちに分け与え栽培させることにしました。しかし、栽培法がよく知らないため、失敗し、種いもはほとんどくさらしてしまいました。 この甘藷の栽培を始めたやさき、時を同じく享保の大飢饉が起こり、石見地方でも多くの餓死者が出ました。平左衛門は農民の苦しい生活を見兼ね意を決して、幕府に納める年貢米を貯蔵してある蔵を開いて米を農民に分け与える一方、年貢米の徴収を差し止めるなどの農民救済の処置を講じました。これらの行為は年貢の徴収を司る代官としての役目からは逸脱した行為であり、国法を犯すことでもありました。幕府は享保18年(1733年)代官職を解き、備中国(岡山県)笠岡の陣屋(代官の居所)に謹慎(門戸を閉じ、外出禁止の罰)を命じました。彼は、その責めを負い、養子にあて遺書を書き残し、腹を切り62歳の自らの生涯を閉じたと伝えられています。

 平左衛門の死後、彼が導入した甘藷は松浦屋与兵衛(まつうらやよひょうえ)という農民の努力によって栽培に成功し、それが石見を中心に近隣の村々へと広がるようになりました。後に、人々は自分たち農民のために一身を捧げた平左衛門を追慕し、鳥取県米子市の富益神社境内など中国地方一帯には供養碑や顕彰碑が数百個も建てられました。明治12年(1872年)には島根県大森(太田市)に「井戸神社」が建立されるなど、真底農民のために尽くした「芋代官」としての彼の遺徳がいかに大きかったかがわかります。 
(文責  伊波 勝雄)