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10.甘藷翁 前田利右衛門
 鹿児島県の薩摩半島の南西にある山川町は、かつての琉球王国とは深い縁のある町です。1609年、薩摩藩が当時の琉球を征服するために船出したのがこの山川の港であり、琉球から江戸上りといって江戸幕府に使者をつかわす時のはじめの上陸地がやはりこの山川の港でした。山川町の近くにある枚聞(ひらきき)神社には、江戸上りの使者が道中の安全をお祈りした扁額があり、また、山川には病気などで亡くなった琉球の人々を葬った墓もあります。そのほか山川町の利永地区には、琉球の江戸上りの使節一行の踊りをまねた「利永(としなが)琉球人傘踊り」が創作され、この地区では、今でも民族芸能として演じられ、平成10年には野國總管宮でも披露されました。ご参考までに、琉球人傘踊りの歌詞、「物の見事は那覇の町 赤い物売りたばこ売り 白い物売りとうふ売り 黒い物売り紺地売り」と、那覇の街の賑わいを歌い込んでいます。

 さらには、この山川町は鹿児島県にはじめて甘藷をもたらした前田利右衛門の出身地でもあります。前田利右衛門は、現在の鹿児島県揖宿郡山川町の農家に生まれ、船乗りとなって、1705年に琉球にやってきました。彼が琉球で目にしたのは甘藷でした。さっそく、この甘藷を山川にもち帰り、漁師でありながら自ら栽培し、それに成功すると、近くの農民にも苗をわけ与えてやりました。その甘藷は、山川から近くの村へと広がりやがては薩摩(鹿児島)全地域で栽培されるようになったと伝えられています。山川の人々は、この甘藷は、琉球には中国の「唐の国」から伝えられた唐(からともよぶ)の国のイモとして「カライモ」とよびました。

 山川の地は、火山灰のやせ地でアワ、ソバなどの作物しかできず、しかも台風がくるとこれらの作物さえ、手に入らずに人々は飢えに苦しむというありさまでした。ところが、前田利右衛門によって伝えられた甘藷は、火山灰のやせ地でも栽培でき、しかも台風にも強く、人々にとってこの甘藷は自分たちの命を守ってくれる作物として大事にされました。

 山川の人々は、明治30年、前田利右衛門の恩徳をたたえるために「徳光神社」を建て、また、彼のことを「甘藷翁(おきな)」とよび、広く尊崇されています。

 現在、山川町では毎年、徳光神社で前田利右衛門をたたえる例祭を行うとともに10月には「さつまいもフェスティバル」を開いています。

(文責  伊波 勝雄)