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4.野國總管の墓の建立と顕彰碑
 野國總管の墓は、1700年、当時の野国村の地頭であった野国(親方)正恒が野國總管の遺徳を称え、その供養を兼ね石厨子を造り、總管の遺骸を安置したのが現在ある墓であります。この石厨子は、今次大戦で破壊され、屋根形の石蓋のみが昔の形のまま残っています。ところで、總管の遺骨がこの墓に安置されるまでどこに葬られていたか、また、どのような経緯で移葬されたかについては皆目わかっていません。おそらく首里の士族に列せられた子孫たちによって首里に埋葬されていた遺骨を野国正恒が移葬したものと思われます。

 野國總管の偉業を称える顕彰碑が建てられたのは、甘藷伝来から146年後の1751年のことで、しかも建立したのは王府等の公的な機関ではなく、總管の親族である6世の孫、比嘉筑登之でした。その顕彰碑が、現在の野國總管の墓の東側にある「甘藷撥祥之地」の石碑がそれであります。この石碑の建立のいきさつについては、資料がないためにわかりませんが、この頃までには、甘藷の栽培は沖縄各地域の隅々にまでゆきわたりその恩恵に浴していると思われますが、当時は、生活に追われ、その生産以外には余念がなく、誰がどういうふうに導入し、広めたかの恩恵についてはあまり関心が薄く野國總管の顕彰碑を建てようという動きがなかったかも知れません。

 公的な顕彰碑は、大きく時代が下って昭和11年(1936年)、那覇市奥武山の世持神社で野國總管は、蔡温、儀間真常らとともに沖縄の産業発展に尽くした一大恩人として祀られているのが最初であります。その後、嘉手納村においては、甘藷伝来350周年記念事業の一環として「野國總管宮」を建立し、分骨を祀り、現在までその遺徳を顕彰して居ります。

 野國總管を称える行事としては、野国村の年中行事では「旧暦二月春の彼岸は野國總管霊前にて行う」とあり、野里村でも同じような行事が行われております。大正11年、旧北谷村では、毎年旧暦の8月17日の村祭りで墓前にて祭典が行われていました。
(文責伊波勝雄)