5 甘藷の旅の終わり
甘藷先生 青木昆陽
甘藷先生の名で知られる青木昆陽は、教科書にも登場するほどの著名人です。今から270年ほど前、薩摩の国から甘藷を取りよせ、それを「さつまいも」の名で関東を中心に広めた、恩人のひとりです。

 青木昆陽は、1698 年、江戸の日本橋(現在の東京)で、魚問屋の一人息子として生まれています。名は敦書といい、幼いころは文蔵とよばれていました。商人の子として生まれながら、幼いころより本に興味を持ち、心ひそかに将来は学問をおさめたいと思っていました。しかし、父の半右衛門は体が弱く、病気がちで、いつの日か父の跡あとをついで魚問屋をいとなまなければいけないこともよくわかっていたのです。それでも、学問をおさめたいという、幼いころからの夢はすてきれませんでした。

青木昆陽の肖像画
 昆陽22 歳をむかえたある日のことです。

 「学問のさかんな京都へ行って勉強したいのですが……。」と、おそるおそる父にむかって切り出しました。しばらくの間、昆陽を見つめていた父は、

 「やはりそうであったか。おまえに魚問屋をつがせるつもりは、はなからなかった。気がすむまで学問に打ち込むがよい。」と、いってくれたのでした。

青木昆陽甘藷栽培試作地(千葉県幕張)
 病にふせた父のことが気がかりでしたが、学問がおさめられることを考えると、はやる気持ちをおさえきれませんでした。こうして、学問をおさめるために京都に旅立ったのです。1719 年のことでした。

 京都では、学者としてすでによく知られていた漢学者(中国の学問の研究者)の伊藤東涯の塾で学ぶことになりました。伊藤東涯は、中国の学問だけでなく、本草学という薬学の研究者でもありました。昆陽も師にならい、漢学はもちろんのこと、薬学や医学の勉強にもはげみました。3年もの間みっちり学問に打ち込んだ昆陽は、江戸にもどり、魚問屋をやめた両親といっしょに長屋を借りて暮らすようになります。長屋で寺子屋を開き、近所の子どもたちを相手に、読み書きやそろばん(計算)を教えながら、生計をたてることにしたのです。寺子屋といえば、江戸時代に、子どもたちに読み書きや計算を教えた個人経営の学習塾のことです。

 そのころになると、父の病もいよいよ重くなり、昆陽も京都で学んだ薬学や医学の知識を活用して懸命に看病しますが、そのかいもなく、ついに帰らぬ人になってしまいます。母もまた、父の後を追うように亡くなってしまいます。両親を亡なくした昆陽は、都合6年間も喪もに服し、お墓参り以外は家にこもり、身をつつしんだといわれています。

八代将軍を動かした甘藷
 ちょうどそのころ、ウンカの大発生によるききんが起こります。前にもお話した「享保の大ききん」です。

 8代将軍・徳川吉宗は、江戸の米を買い上げ、それを困った農民に分け与えるよう指示を出します。ところが、米を買いしめる商人が出て、米が値上がりし、江戸のような都市で暮らす貧しい人びとの生活をも圧迫するようになっていきます。貧しい人びとは、米を買いしめた商人に対して、「うちこわし」を行い、農村ではあいつぐ負担の増加と借金に苦しむ農民が、「百姓一揆」を起こします。

 困り果てた将軍吉宗は、近臣のひとりで長崎出身の深見新兵衛をまねいて、九州あたりのききんのようすを聞きました。新兵衛は、

 「長崎では、米の不作がつづいても飢えで苦しむことがないよう、甘藷を植えております。米がとだえたときは、それを食用にあてているのです。それで、この度のききんにも、たくさんの餓死者を出さずにすんだようです。薩摩の国では、もっと早くから甘藷をつくっております。」と答えました。

 吉宗は、ちょうどそのころ長崎出身の平野良右衛門というものが江戸にのぼってきており、しかも甘藷にくわしいと聞いて、江戸城内の吹上御苑で栽培を試みてみるように、指示を出します。

 そのころ、昆陽の長屋近くに住む江戸町奉行所の与力(奉行を助ける役人)加藤枝直は、昆陽のすぐれた学問と、人柄にほれこみ、役人に取りたてようと奉行の大岡越前守にすいせんしていました。

 与力の加藤のすいせんをうけた越前守は、 
「そなたが申すとおり、それほどすぐれた学者であるならば、甘藷について何かまとめたものがあれば、さし出すように」といいつけました。加藤はさっそく、越前守の申しつけを昆陽に話しました。

 昆陽は、甘藷が関西地方ではすでに普及していたことや、同じ師のもとで学問に打ち込んだ先ぱいの松岡成章が著わした『蕃藷録』という本も読み、甘藷に対してある程度の知識はもっていました。そして、甘藷が食用としてもたいへん有用な作物であり、それを広めなければならないと考えていたのです。それでも、書物にまとめるということは、そう簡単にはいきません。

 いろいろな書物を読みあさるうちに、中国の農業書に出会い、昆陽の甘藷に対する知識を深めることになります。こうしてまとめられたのが、漢文で書かれた『蕃藷考』という本です。昆陽の著わした『蕃藷考』は、その後、関東で広められることになる甘藷の、すぐれた手引書となります。

 『蕃藷考』を読んで、大いに心を動かされた越前守は、将軍吉宗にも見せることになります。吉宗もこれを読んで感心し、昆陽に江戸での試植を命じます。
甘藷先生の誕生
 昆陽は、甘藷栽培の責任者という役職が与えられます。甘藷の栽培に本格的に取り組むことになります。種いもは、将軍吉宗の命令で、薩摩藩から取りよせられることになり、1500 個ほどがとどけられました。

 ところが、そのころの江戸では、甘藷をめぐってあらぬうわさが飛び交っていました。庶民の間には、甘藷を食べると病気になると、本気で信じている者もいましたし、「甘藷には毒がある」と書かれた農業書もありました。また、学者の中にも、甘藷の栽培に反対する者がいました。こういう状況では、栽培地ひとつ決めるにも、手間どってしまいます。そのうえ悪いことに、薩摩から取りよせた種いもも、大半をくさらせてしまいます。霜のおりる寒い江戸の気候では、長く保存することができなかったのです。

 昆陽は寝る間もおしんで、残った種いもの保存と、栽培法に取り組みました。そして、寒い冬の間種いもを保存し、暖かくなる春になってから種いもを植え、芽が出るのを待って、そのつるを植える方法を見つけ出したのです。その間に、甘藷の栽培地も、江戸の小石川にある幕府の薬草園(現在の小石川植物園)と千葉の幕張、そして九十九里りの畑の3ヵ所に決まりました。

甘藷試作地の九十九里に建立されている顕彰碑
小石川植物園(東京都)に甘藷試作地
跡があります。

 栽培地の畑は念入りに手入れされ、イノシシなどが畑を荒あらさないように周囲を柵でかこみました。

 こうして、しっかりと準備を整えた昆陽は、農民をやとい入れ、いよいよ甘藷の植えつけを始めました。その日から、昆陽の甘藷畑通いが始まりました。

青木昆陽の墓 東京都目黒の瀧泉寺にあります。
日本橋の家から小石川の薬草園までの6キロメートルの道のりを、毎日通いつづけたのです。そして、甘藷の一日一日の成育のようすを自分の目で確かめる生活を送ったといわれています。

 1735 年11 月、記念すべき最初の甘藷が掘り出されました。予想をうわまわる成育ぶりでした。その数は、4400 個あまりにおよんだといわれています。4400 個あまりの甘藷は、関東地方の甘藷栽培のいしずえとなる、貴重なものでした。昆陽の汗と涙なみだの結晶といえるものだったのです。

 昆陽の努力によって成功した甘藷栽培は、将軍吉宗の後押しもあり、関東地方を中心として、全国へ広まることになります。昆陽の働きはもちろんですが、将軍吉宗と大岡越前守の果たした役割も見のがしてはいけません。

 昆陽は、甘藷栽培の功績が認められ、書物奉行(江戸城内の幕府の文書を保管したり、出し入れを司つかさどる役)に任じられ、吉宗の命によって蘭学(オランダ語による西洋の学術を研究する学問)を学びます。そして、蘭学の書物を数多く著あらわし、日本の蘭学の基礎を築いた学者としても、知られるようになります。

 人びとから「甘藷先生」とよばれ、したわれてきた青あおき木昆陽は、1769 年10 月、72 歳でこの世を去りました。

 昆陽の墓は、東京都目黒区の瀧泉寺(目黒不動)にあり、生前に自らの手によって刻んだといわれる「甘藷先生の墓」という墓碑が建っています。その碑には「享保20 年、甘藷を植える。その甘藷が各地に広がり、世に飢える人が出ないことが私の願いである」と記されています。短い文面の中に、昆陽の甘藷に対する思いが伝わってきます。
青木昆陽をしのぶ供養の行われる「目黒不動」 目黒不動で行われる「甘藷まつり」
 現在、目黒不動では、毎年10 月28 日には青木昆陽先生遺徳顕彰会かいの主催で、昆陽をしのぶ供養と甘藷まつりが、にぎやかに開催されています。

 これまで見てきたように、太古の昔、中・南米に誕生した甘藷は、長い道のりを経へて、中国へたどり着きました。

 貧しき人びとへの慈愛、たえまざる向上心、未知の世界へ果敢にいどむ勇気をもった私たち嘉手納町の生んだ偉大な先人・野國總管の手によって、野国村へと伝えられました。野国村を発信基地とした甘藷は、やがて海をこえて日本全国へと伝えられることになります。

 野國總管をつき動かしたのは、いったい何だったのでしょうか。飢えに苦しむ貧しい人びとにむけるやさしい眼差しがあったのです。自らの境遇に甘んじることなく、自らを切りひらく大きな世界にはばたこうとする強い信念があったのです。そして、臆することなく物ごとに取り組む勇気があったのです。

 三重大学名誉教授の塩谷格さんは、「甘藷は沖縄の文化遺産、その火をともしつづけよう」と私たちに語りかけています。先人・野國總管の精神に学ぶことこそ、「火をともしつづける」ことになるのです。

昆陽の功績を称える説明文
 青木昆陽は、江戸時代中期の儒学者で、江戸日本橋に生まれました。
1732(享保17)年に、西日本を襲った享保の飢饉の惨状を見た昆陽は『蕃藷考』という本を著し、多くの農民にさつまいもの栽培法を教えました。当時さつまいもを「甘藷」と呼んでいたため、青木昆陽は甘藷先生と呼ばれました。昆陽はこのほかにも、幕府の命を受け、関東、東海の古書典籍を採訪したり、オランダ語の学習も試みており、後の蘭学興隆の因をつくりました。(東京都教育庁文化課文化財保護係「青木昆陽墓」の説明文より)

青木昆陽が説いた甘藷の効用
①狭せまい土地からたくさん収穫できること ②味覚にすぐれていること③栄養分が豊富にあって身体によいこと  ④土の中にできるため風や雨に強いこと ⑤種芋からたくさんの苗がとれること ⑥飢饉のときでも穀物のかわりになること ⑦お菓子のかわりになること ⑧お酒にすることができること ⑨粉にしてお餅がつくれること ⑩生でも煮ても焼いても食べられること ⑪虫の害に強いこと ⑫土をかける程度で栽培に手間がかからないこと

(NHK 取材班・編『その時歴れきし史が動いた 9』より