4 農民を救った命の代償
いも代官井戸平左衛門
 大森銀山で有名な石見国(島根県)にも、甘藷を伝えた恩人として知られる人がいます。いも代官とよばれた「井戸平左衛門」という人です。

 井戸平左衛門は、1672 年に江戸、今の東京で生まれ、60 歳になった1731 年に大森代官に任命されます。代官というのは、幕府の直轄地(直接管理すること)を支配し、税金などの徴収をつかさどる役人のことです。大森代官は、大森銀山だけでなく、石見(島根県)・備後(広島県)・備中(岡山県)にわたる幕府の領地を支配するという大きな権限をもった役職でした。

 井戸平左衛門の活躍ぶりを見る前に、江戸時代の社会のようすについて少しふれておきます。その方が、平左衛門の苦のうや農民たちの苦しさがより理解が深まるからです。

 江戸時代は、士(武士)・農(農民)・工(工業)・商(商業)などの身分制度が完成し、幕府や藩(現在の都道府県にあたる)は、武士は尊いとする士農工商の考えを人びとにうえつけます。

 一番身分の高いとされた武士は、農民たちの納める年貢米をお金にかえ、その収入によって生活をいとなんでいました。江戸時代のはじめのころは、農民たちの納める年貢は収穫した米の40 パーセントで、残りの60 パーセントは自分たちの食料にしたり、売ってお金にかえることもできました。このような年貢の比率を「4公6民」といいます。
 ところが、武士の数がふえる一方で、生活がだんだんぜいたくになり、あらたにお城をつくったり、改築したりする必要が出てくると、これまで以上に費用がかかるようになります。

そのため、幕府や各藩では、農民の納める年貢をだんだんと引き上げるようになります。その比率を「5公5民」あるいは「6公4民」、ひどいところになると、「7公3民」という藩まで出るようになっていきます。
 農民たちは、汗水を流して一生懸命に働いてお米をつくっても、収穫の70 パーセントを年貢として納おさめなければならないのです。
そうなると、自分たちで食べるお米さえも残らないことになります。

今でも「いも代官」として人びとから
敬愛されている井戸平左衛門の木造

 江戸幕府を開いた徳川家康は「年貢は百姓が死なぬよう生きぬように取れ」といったと伝えられていますが、まさに農民は生きるか死ぬかの生活を送っていたのです。

 さて、代官としてはるばるやってきた平左衛門が、まず目にしたことは、貧しい農民の姿でした。住む家はもちろんのこと、着るものから食べるものまで、自分が暮らしてきた江戸とは大ちがい、すべてがそまつなものだったのです。平左衛門は、農民たちの暮らしぶりをもっとくわしく知るために、着任そうそう、村々を歩きまわりました。平左衛門をむかえる農民たちは、

 「どうぞ、年貢をへらしてくださいませ。このままでは家族が食べるだけの食糧さえも手もとに残りません。飢えて餓死するしか道は残されていません。」と必死に訴えるのです。

平左衛門の功績が刻みこまれた
「井戸公顕彰碑」
 平左衛門は、
 「この国の農民たちは、なにゆえに、それほどまでに苦しい生活を送っておるのか」とたずねました。

 「ひでりがつづき、その上害虫も発生し、不作がつづいておるのでございます。

とれる米も年貢を納めるのがやっとというありさまで、私たちが食べる分は一粒たりとも残りません。」と、農民たちは口をそろえていいました。

 また別の農民は、
 「私たちには、口にする食料も底をつき、年よりや子どもたちも飢え死に寸前のところまで追いつめられております。せめて、年貢をへらしていただきたいのです。」

というのです。

 平左衛門の心は、暗くうちしずんでしまいました。自分のおさめる国を豊かで暮らしいいところにしたいと願って、代官職をひきうけてやってきたのに、着任そうそう難題にぶつかってしまったのです。農民たちの訴えは、心がいたいほどわかりました。農民たちの苦しみを、そのままほおっておくわけにもいきません。そうかといって、自分ひとりの考えで、年貢をへらすこともできないのです。思い悩んだあげく、名案を思いつきました。それは、金持ちの商人たちから、お金を寄付して
もらい、その金で米を買い、苦しむ農民に分け与えるというものでした。

 当時の商人は、身分は低いとされていましたが、さまざまな商品を売りさばいて利益をあげ、農民とは比べものにならないほど裕福な暮らしをしていました。
 さっそく商人たちがよび集められて、
 「皆も知ってのとおり、ここのところ凶作がつづいて、米の収穫もほとんどできず、農民のなかには飢えに苦しみ、餓死する者も出ておる。このまま、農民たちの苦しみを見すごすことはできぬ。心あるものは手をさしのべてほしい」と、献金をよびかけたのです。

 平左衛門の農民を思いやる心に動かされた商人たちは、それぞれがお金を出し合いました。



往時の姿のまま遺された
「石見代官所跡」。
現在は石見銀山資料館として使われて
います。

 集まったお金で、お米を買い、農民に分け与えたのです。しかし、このようなやり方がいつまでもつづくわけがありません。一時しのぎにしかならないのです。平左衛門自身も、そのことはよくわかっていました。悩みは深まるばかりでした。

石見地方最古の井戸平左衛門の頌徳碑。
江津市にあります。

平左衛門の決けつい意
 1732 年の春、代官所近くにある栄泉寺というお寺に、諸国を行脚(修行のため諸国を巡り歩くこと)しているお坊さんが、旅の荷をといて滞在していました。村人の話では、とても徳の高いりっぱなお坊さんだということです。

 代官として着任して以来、ご先祖の供養もしていない平左衛門は、旅の坊さんをお招きして、お経をあげてもらうことにしました。ひととおりの供養がすむと、平左衛門は、農民たちの貧しい暮らしぶりや、それを救う手だてがなく、思い悩んでいる苦しい胸のうちをお坊さんに打ち明けました。

 平左衛門の話を真剣に聞いていたお坊さんは、 「確かに、この国の作物は枯れかけて、見るかげもありません。農民たちの暮らしぶりも、私のような旅の者でも、ひと目でその苦しさがわかるほどです」というのでした。しかし、と少し間をおいたお坊さんは、つづけました。

 「私が行脚のとちゅうで立ちよった薩摩の国では、カライモという作物のおかげで、ききんのときでも、飢死にする人が少ないと聞きました。なんでも、カライモは栽培も容易で、お米よりはるかに収量も多いというお話でした。」

 打つ手がなく困り果てていた平左衛門にとっては、旅の坊さんの話はとても大きく勇気づけられるような思いがしました。さっそく、幕府に願い出て、薩摩の国から種いもを取りよせることにしました。幕府の力をかりなければ、種いもを手に入れることはなかなかできなかったからです。

 苦労して手に入れた種いもを、農民たちに分け与え、栽培させることにしました。ところが、くわしい栽培法を教えてもらえなかったせいもあってか、せっかく植えた種いもも、なかなか根づきませんでした。ほとんどくさらせてしまったのです。もともと暖かい地方の作物を、霜がおり、雪が降るような寒いところで育てるのは、とてもむずかしいことでした。

 平左衛門が甘藷の栽培に苦心して取り組んでいたころ、西日本一帯では、夏から降りつづいた雨がようやくやんだかと思うと、今度はウンカという害虫が大発生します。この虫がついた田んぼは、稲がまたたく間に枯れてしまうのです。秋の収穫の時期をむかえていた稲が、見るもむざんな姿に変わり果てていました。これが1732 年に起こった「享保の大ききん」です。このききんによって、西日本だけで2万人あまりの人びとが餓死したとされています。苦しい生活をしいられていた石見地方の農民に、追いうちをかけるように、ききんが起きてしまったのです。飢えのために命
を落とすものがあとをたちませんでした。

 平左衛門は、苦しむ農民を救うために、八方手を尽くしたのですが、餓死をくいとめることはできませんでした。そこで、ある重大な決意をすることになります。

「井戸公之の碑」 このような供養塔や顕彰
碑は数百基きにものぼるといわれています。

農民を救すくった命の代償
 代官所の蔵の中には、昨年度から幕府に納める年貢米が入っていました。その蔵を開くことを、決意したのです。

 「蔵の中にある年貢米を、すべて農民たちに分け与えよう。いや、そればかりでは、このききんをのりきることはできない。今年の年貢米をいっさい取りたてないようにしなければならない。しかし、一代官の身でこのようなことが許されるのであろうか。やはり、幕府の命を待たねばならぬか。とはいうものの、日に日にふえる餓死者を目の前にして、幕府の命令など待ってはおれぬ。我が身の心配より、まずは餓死をくいとめることが先だ。」

 平左衛門はその決意を心の中に固かためると、すばやく行動に移します。

 「代官所の蔵を開け、中の米を農民たちに分け与えよ。そして、今年の年貢のとりたては行わない旨むねの通知を出すように」と、配下の役人どもに命じたのです。

 「幕府の命令もないままに、年貢米を農民に分け与えることなど、とほうもないことでございます。せめて、幕府の命令をお待ちくだされ。」と役人たちも、思いとどまるように平左衛門を説せっとく得しました。ところが平左衛門の決意は固く、 「そちたちに、迷惑はおよばぬよう、すべての責任はこのわたしが取る。」という強い態度に役人たちは従わざるを得ませんでした。

 こうして、蔵が開けられ年貢として納められていたお米が、農民たちに分け与えられました。そのうえで、今年の年貢のとりたては行わないことが告げられたのです。

 平左衛門の取った手段は、あくまでも非常手段であり、代官という職務からは、はずれたことでした。農民たちを飢えから救うことはできましたが、幕府の命令を待たずに、かってなふるまいをしたということで、罰せられることになります。

 1733年、平左衛門は大森代官の職をとかれ、備中国笠岡(現在の岡山県)の陣屋(代官の居所)に謹慎を命じられます。謹慎というのは、門戸を閉ざし、外出を禁止することです。

 平左衛門は幕府の正式な処分がくだる前に、自らの責任をとって腹を切り、62歳の生涯を終えたといわれています。

 平左衛門が、薩摩から取りよせた甘藷は、ほとんどくさらせてしまいますが、ただひとりだけ、松浦屋与兵衛という農民が栽培に成功します。平左衛門の死後、与兵衛の努力のおかげで、寒い地方でも育つ甘藷の栽培法が見つかり、石見を中心にして近隣の村々へと広がっていきます。

 自分の命とひきかえにしてまで、農民を餓死から救うために力を尽した井戸平左衛門に対して、人びとは富益神社(鳥取県米子市)の境内をはじめとして、中国地方一帯に供養塔や顕彰碑を建てて、感謝の気持ちをあらわします。供養塔や顕彰碑は、数百基にものぼるといわれています。

 また、1872(明治5)年には、島根県大森(太田市)に、井戸平左衛門を祀った「井戸神社」が建立されます。

 「領民とともに苦楽をとともにしたい。」と語ったことばどおり、領民のために一命をなげうった井戸平左衛門は、現在でもなお「いも代官」として人びとから慕われています。

「井戸神社」 井戸平左衛門を祀った神社です。
平左衛門の死後、彼の功績をたたえる頌徳碑
は490ヵ所にもおよんでいるといわれ、島根県
のほかに鳥取県や広島県にも建てられています。
井戸公顕彰碑
 井戸平左衛門をまつった「井戸神社」に建立されている顕彰碑には、平左衛門の功績が刻銘されていますが、その説明文には、以下のような文面が刻まれています。

 時は徳川の中期将軍吉宗の頃、当時全国をおそった享保の大飢饉に石見銀山領二十万人民の窮乏はその極に達し、正に餓死の一歩寸前をさまよっていた時大森代官井戸平左衛門正明公は、食糧対策百年の計をたててこの地方に初めて甘藷を移入、その栽培奨励に力を注ぎ、一方義金募集・公租の減免を断行、遂には独断で幕府直轄の米倉を開くなど非常措置により、一人の餓死者も出さなかったというこの深い慈愛と至誠責任を貫いた偉大なる善政は、千古に輝き今も尚代官様として敬慕して公のみたまをこの地に祀り、その遺徳を永く顕彰している。
(句点は筆者)

甘藷の普及に尽した人びと その2 陶山純翁
 対馬は海をへだてて朝鮮半島とむかいあっている島です。もともと水田の少ない対馬藩では、食糧不足が長年の悩みの種でした。食糧が少ないにもかかわらず、対馬を足がかりとして朝鮮との間で密貿易する者が多く、島外の人びとが数多く住んでいたのです。藩の郡奉行として食糧対策に取り組んだのが陶山純翁です。しかし有効な手だてがないまま、職を退くことになります。1720年、職を退いた後、経験豊かな農民・原田三郎右衛門を薩摩の国につかわし、甘藷をもとめ、手に入れた甘藷を農民たちに栽培させます。純翁はその体験をもとに『甘藷説』という本をあらわし、甘藷の栽培・普及につとめ、大きな功績を残した人として尊ばれました。

甘藷の普及に尽した人びと その3 山城の国の「いも宗匠」
 山城国(現在の京都府)の出身といわれる島利兵衛は、罪を犯し硫黄島に島流しになります。その島で甘藷を知り、栽培法などを身につけます。

 1716 年、罪が許されて帰るとき、ひそかに甘藷を持ち出します。そして郷里の長池というところで、持ち出した甘藷の栽培に成功します。それを知った近くの農民たちも、利兵衛より苗を分けてもらい、栽培するようになり、それがきっかけとなって、ほかの地域へも広がっていくことになります。

 利兵衛は、山城国一帯に甘藷を広めた恩人として尊敬され、「いも宗匠」(先生)とよばれるようになります。現在、京都の大蓮寺にある利兵衛の墓には「琉球芋宗匠島利兵衛」という碑文が建てられています。