日本との懸かけ橋
1 野国村から海をこえて
奄美大島・種子島へ
 薩摩藩が琉球に侵攻する前まで琉球王国の支配下にあった与論島・徳之島・奄美大島・喜界島などへは、いち早く甘藷が伝えられています。奄美大島へは、1630 年代には早くも甘藷が伝えられたという記録もあります。
 1611 年のある日のことです。尚寧王(第2尚氏王統7代)は、琉球にとどまっていた薩摩兵を送り出す宴の席で、

 「これは甘藷という珍しい作物、お口にあいますかどうかわかりませぬが、まずは一口、めしあがってみてはいかがですかな」と、甘藷をすすめました。

 すすめられるままに、恐る恐る口にした薩摩兵は、 「うん、これはおいしい。ほくほくしていて、ほんのりと甘みがある。いやぁ、こんなおいしい作物があるとは、今の今まで知りませぬ。まことにおいしい」と、口々にいい、帰るま際ぎわになって、


楢林神社 種子島での甘藷の普及に力を尽した島主・種子島久基公が祀られています。
 「国王様、この甘藷とやらを、おみやげとして分けていただくわけにはまいりませぬか」と願い出たのです。

 尚寧王は、願いを聞き入れて、生の甘藷を進しんてい呈したといわれています。

 これが、沖縄から持ち出された甘藷の第1号といえるのかも知れませんが、残念ながら、その甘藷がその後どうなったのか、明らかにされていません。

 時が流れて、1698 年、種子島の島主・種子島久基は、琉球で栽培されている甘藷のうわさを耳にし、時の琉球国王・尚貞(第2尚氏王統11 代)に、甘藷を送ってほしいと頼たのみ込こんできました。尚貞王は快くその願いを聞き入れ、甘藷を一篭送ったといいます。

 久基公は、さっそく家老の西村時乗をよびつけ、 「これは、琉球で栽培されている甘藷という作物じゃ。栽培も容易で、短期間で収穫でき、しかも美味と聞いておる。われらの島でも栽培できるのであれば、きっ
と有用な作物になるにちがいない。領地の農民の中から有能な者を選び、急ぎ栽培するよう取りはからえ」と命じました。

種子島家歴代島主の眠る墓地(西之表市にあり、文化財に指定されています。
 島主の命をうけた西村は、日ごろから信頼をよせる農民の休左衛門に甘藷の試作を命じたのです。休左衛門は、琉球から送られた種いもを地中に埋うめたり、いもづるを地中にさしたり、さまざまな方法で栽培に取り組み、やがて種子島での甘藷の栽培に成功します。以来、種子島では、沖縄と同様に人びとの生活に役立つ作物として、さかんに栽培されるようになります。そして、甘藷が中国から琉球に伝わり、琉球を経て種子島にもたらされたということで、甘藷のことを「からいも」とよぶようになります。その当時、中国のことを「唐からの国」とよんでいたからです。

日本での甘藷栽培の初めを記念して建立された「日本甘藷栽培
初地の碑
 種子島では、休左衛門によって栽培が成功したことを、日本での甘藷栽培の初めだとして、西之表市にある下石寺の地に「日本甘藷栽培初地の碑」を建立しています。その当時の琉球は日本の領土ではありませんので、種子島が日本で初めて甘藷の栽培に成功したというわけです。

 その石碑では、種子島久基、西村時乗、休左衛門の3人がいもを伝えた恩人としてその業績がたたえられています。また、島主の種子島久基のことを「いも殿との様」ともよび、久基公を祀った神社のことを「いも神社」とも名づけ、その功績を今に伝えています。いもの栽培に成功した休左衛門の働きも認みとめられ、百姓の身分でありながら「大瀬」という姓を名乗ることが許ゆるされています。


種子島で甘藷栽培を成功させた休左衛門の墓
 1998(平成10)年10 月30 日、甘藷が伝えられてから300 年目をむかえた種子島では「からいも伝来300 周年記念式典」を行い、その記念事業の一つとして「からいもソング・からいも童話」の募集を全国的によびかけて行いました。からいもソングの最優秀作品に選ばれた「からいもくん」の歌かし詞は、「からからイモイモいいもんだ」という歌い出しになっており、甘藷のありがたさを表現したものとなっています。

 甘藷栽培が現在でもさかんに行われている種子島の耕地面積は8900ha(2002年現在で)ですが、そのうち、田んぼが1960ha で、畑作地が6940ha となっています。畑作地のうち、2210ha で甘藷が栽培され、全体の31.8 パーセントをしめていることになります。甘藷は主に、でんぷんや焼酎の原料、お菓子類の材料として利用されています。これから見てもわかるように、種子島では、300 年たった現在でも、甘藷は人びとの生活に役立ち、島の経済をささえているのです。
 いもの栽培に成功した休左衛門の13 代目の子孫にあたる大瀬正雄(大正9年生まれ)さんは、休左衛門が試作したという甘藷畑をたいせつに守り、今でも甘藷を栽培しつづけ、収穫したものを市役所に贈りとどけ、その恩恵を伝えています。
休左衛門が初めて甘藷を栽培した畑と十三代の子孫にあたる大瀬正雄さん。
長崎県平戸
 長崎県の平戸には、種子島よりも早く、甘藷が栽培されたという記録があります。

 イギリスは、日本との貿易を行うために長崎の平戸にイギリス商館を設立し、商館長にリチャード・コックスを任命します。そして、ウィリアム・アダムスも館員のひとりとして、平戸に移り住みます。


三浦按針ことウィリアム・アダムスの墓
 コックスは200トンほどのジャンク(中国製の帆船)を修繕して、シーアドベンチャー号と名づけ、アダムスを船長にして、1614 年、シャム(タイ)にむけて出帆させます。日本で売れなかったインドの商品や、日本で仕入れた刃や弓矢・鉄砲などが積まれていました。ところが船の浸水がひどく、とてもシャムまではいけません。やむを得ず行き先を変更して、那覇の港に入港するのです。船の修理をしている間、積み込んだ商品の一部を那覇で売りさばくことにしたのです。そして、アダムスの目にとまったのが甘藷だったというわけです。ものめずらしさもあって、甘藷一袋を買いもとめてみやげとして持ち帰り、商館長のコックスにとどけます。1615 年のことです。

 「この甘藷は、琉球で栽培されている作物で、われわれが日ごろから食べているポテトに似にていますが、ほんのりとした甘みがあります。試にここで栽培してみてはいかがでしょうか」というアダムスのすすめにしたがって、コックスは平戸島の鳶の巣というところに土地を借り、農民をやとって甘藷を栽培させたといいます。

コックスの日記の中にも、「私は今日庭をつくり、琉球から来た芋を植えた。日本ではまだ植えられたことのないものである。私はこの庭のために年額5シリング支払うことになっている」と記されています。

 コックスが5シリングを出して借り、甘藷を栽培したという地には、「コックス甘藷畑跡」の碑が建てられ、ここもまた、日本で最初に甘藷が栽培された地と伝えられています。

 アダムスによって甘藷が持ち込まれたとする年代は、種子島より83 年も早いということになります。そして、その時の植え方も、かずらを地中にさして植えるのではなく、種いもをそのまま植えたとされています。現在でも鳶の巣あたりでは、種いもをそのまま植えるという方法で甘藷が栽培され、その名まえも「リュウキュウイモ」とよんでいます。ただ、コックスが栽培したとされる甘藷は、記録の上に見られるだけで、それがほかの地域に広まったようすはありません。したがってその影響はとても少なかったと考えられます。長崎県への甘藷の伝来は、別のルートがあったのではないかと思います。
宇宙への玄関口・種子島
 種子島は、鹿児島の南方海上115km に位置し、日本の有人離島の中では5番目に大きな島です。気候は温暖で、年平均気温は20℃、冬の平均気温も11℃から13.4℃と比較的高く、0℃以下になることはありません。

 耕地に恵まれ、さとうきび・甘藷・稲いなさく作・お茶・たばこ・花などの栽培がさかんで、農業を生業とする人びとが多いのですが、畜産に従事する人もいます。

 種子島といえば、昔から海洋交通の要衝としてしられ、1543 年にポルトガル船が漂着し、鉄砲を伝え、日本ではじめて火縄銃が生産されたところとしても有名です。

 現在、日本で唯一の実用衛星を打ち上げる「種子島宇宙センター」があり、宇宙への玄関口として、よく知られています。このように、古い歴史と未来が共存する特色のある島です。

ウィリアム・アダムス(三浦按針)
 江戸時代の初めに、日本にやってきたイギリスの技術者で航海士でもあります。アダムスは、1600 年、オランダの東洋探検隊の航海長としてインド洋をめざしますが、暴風雨に襲われ、豊後(現在の大分県)に漂着します。その後、江戸(現在の東京)に送られ、徳川家康の信任をうけ、幕府の外交顧問となり、通訳や外交文書の翻訳の仕事に従事します。そして、アダムスは現在の神奈川県三浦郡に領地をあたえられ、姓を「三浦」、名を水先案内人という意味の「按針」と名のるようになります。平戸に開設されたイギリス商館につとめ、海外交易に尽つくします。20 年間日本に滞在し、56 歳でこの地で病死しています。