3 石碑にきざまれた野國總管
顕彰碑と墓碑
 1920 年代に沖縄史蹟保存会によって野国村に建てられた墓碑の一つに、野國總管の功績をたたえる「産業界之の恩人野國總管之の墓」というのがあります。

 墓碑は、沖縄戦で銃弾をうけて裏面がえぐられ、三つに割られてしまいましたが、戦後、三つに割れ
た墓碑をつなぎ合わせ、こわれたところを直して建てられました。現在では、米軍基地のカデナマリーナの南側に位置する野國總管の墓地の一角に移転されており、いつでも見ることができます。

 このように、野國總管の功績は、1920 年代になると、歴史の本などだけでなく、顕彰碑や墓碑などにもきざまれ、たたえられるようになります。さらに1930 年代に入ると、顕彰碑や墓碑だけでなく、新たに神社がつくられ、神さまとして祀られる(祭神という)ようになります。

 それでは、神社がつくられるようになったいきさつを見ていくことにします。

 1920(大正9)年、仏教連合会を中心に、野國總管と儀間真常を顕彰する「諸蔗謝恩碑建設期成会」が結成され、記念碑建設のための寄付金の募集が行われました。しかし、そのときには、実現にはいたりませんでした。

 その後、沖縄砂糖同業組合が、創立20周年にあたる1934(昭和9)年にむけて、「砂糖の大恩人」である儀間真常の謝恩碑の建設が新たに計画されます。この謝恩碑の建設計画に対して、1933 年8月に結成された沖縄文化協会が、「沖縄の産業の恩人を祀るため神社をつくり、子々孫々までその恩恵がおよぶように」、儀間真常と野國總管の二人を祀る神社の建設計画を提案します。

 その後、沖縄砂糖同業組合と沖縄県農会の賛同をえて、神社の建設協議会が開催され、計画が具体的にすすめられるようになります。

野国總管の功績を称えた「産業界之恩人野國總管之墓」の墓碑
世持神社の祭神
 そして、1933 年12 月に「神社設立発起人会」が結成されることになります。

その設立会のときに、沖縄文化協会の島袋源一郎から、沖縄産業の発展に功績のあった蔡温もいっしょに祀る新たな提案がなされ、同神社に三大恩人として、野國總管・儀間真常・蔡温をいっしょに祀る(合祀)ことが決定されます。

 その後、1934 年には、沖縄県知事を会長とする「神社創立期成会」が結成され、島袋源一郎の提案により神社名を「世持神社」とすることが決まりました。「世持」とは、沖縄のことばで「ユームチ」といい、世の中をささえるという意味があり、三人は沖縄の産業をささえた恩人として祀られることになったのです。そして、翌年の1935 年の3月に、神社の建設予定地として那覇市奥武山公園内が、那覇市議会で承認され、場所が決定します。

 しかし、内務省から、神社創設の祭神は正三位以上(明治政府が与える神社の神の位が三位以上)でなければならないとして不許可になり、結局は、県の神社の下に位置する「郷社」として、贈正五位の具志頭文若(蔡温)を正座、儀間真常・野國總管を左右座にすることで認定され、1937 年2月28 日にようやく世持神社創立の許可が正式におりることになりました。

 このように、産業界の大恩人・野國總管は沖縄産業の恩人に感謝する形式をとりながら、戦時中の皇国意識(天皇のおさめる日本国の国民としての意識)をさかんに高めていく当時の社会の動きを背景に、世持神社の祭神として祀られ、神格化されることになりました。それは野國總管が、国民精神を高めるための象徴として位置づけられたことを示すものでした。

野國總管が祀られた「世持神社」(那覇市奥武山公園内)

儀間真常を祀った「住吉神社」(那覇市垣花)
産業界恩人の墓
 野國總管の功績をほめたたえた記念碑ひは、顕彰碑や總管野國由来記をきざみこんだ墓碑をのぞくと、今日、現存しているものとして三点が確認できます。その記念碑の形や碑文(きざみこまれた文章)の内容をくわしく見ていくと、それぞれの時代で、野國總管が果たしてきた功績がどのように人びとに理解され、たたえられてきたかがわかります。それらの碑文の内容を見ながら、野國總管に対する人びとの思いや、評価がどのようにかわってきたかを考えてみることにしましょう。

 現在残っている野國總管の顕彰碑で、もっとも古い時期に建てられたものは、1920 年代の半ば(大正末期)に沖縄史蹟保存会が建てた標柱である「産業界之恩人野國總管之墓」です。

 同顕彰碑は、前に述べたように、裏面がえぐられているため碑文の全文を確認することはできません。そのため、その内容のくわしいことはわかっていません。

 ただ、その顕彰碑は、沖縄史蹟保存会が、沖縄を代表する7偉人(羽地朝秀・具志頭文若・宜湾朝保・儀間真常・野國總管・程順則・護佐丸)の一人として、野國總管を取りあげて顕彰した碑であり、野國總管の功績が1920 年代の沖縄の社会でどのように評価されていたかを考えるうえで、重要な意味をもっています。

米軍基地嘉手納マリーナの南側にある「野國總管の墓」

甘藷の恩人頌徳碑
甘藷顕彰の碑
 二点目は、那覇市奥武山公園内の世持神社境内に、1938(昭和13)年5月に建立された「産業恩人記念碑」です。

 野國總管が世持神社に神さまとして祀られるようになったいきさつについては、すでにお話したとおりです。そのさいに、建立された記念碑にも、蔡温や儀間真常とともに、甘藷の苗を中国から持ち帰って栽培し、島民を救った偉人として野國總管の功績をたたえる碑文がきざまれ、神さまとして祀られています。

 三点目は、嘉手納町字兼久の野國總管の墓地の一角にあって、一点目の顕彰碑のすぐ隣に建てられている「甘藷の恩人頌徳碑」です。その顕彰碑は、1943 年6月に沖縄県農業連合会創立30 周年記念として、野國總管の功績をたたえ、その恩恵に感謝するため新たな記念碑として建てられたものです。

 その碑文には、戦争のためにすべての人や物が動員されていく時代において、野國總管がどのように人びとに理解され、たたえられているかを知るうえで、興味深い内容がきざまれています。碑文の前半では、これまで見てきたのと同じように、野國總管が伝えた甘藷で沖縄がどれほど助けられ、そして救われたかを記してほめたたえています。後半では戦時下での野國總管の遺徳に感謝する理由として、つぎの点が記されています。

 戦争では、甘藷は食糧としてだけでなく、「高度工業用原料」(アルコール)である「軍需品」(戦争に必要な物資)として重宝されています。そして、その甘藷は野國總管が國を救うために「犠牲的精神」をはらって伝えたものであり、県民はその犠牲的精神に感謝をささげるものである、ときざまれています。

世持神社境内に建立された「産業恩人記念碑」

時代を反映する碑文
 その碑文は、野國總管が戦時下の国民精神を高めるために活用されたことを表しており、その内容が野國總管のありのままの姿とはまったく別に、戦争のまっただ中にあった時代や社会の動きの中で解釈され、顕彰されていた事実を示しています。

 さらに、野國總管の業績は、戦後においても、当時の時代の状況をうけて、新たな視点(ものの見方)から顕彰されることになります。特に教育や行政の分野において戦後沖縄の復興における一つの指針として、野國總管の遺徳がかかげられ、推進された点が大きな特徴だといえます。

 その一つは、前にもお話しましたが、教科書編集の教材として、戦後の新たな視点から野國總管の功績が顕彰されたことです。米軍政府は、沖縄戦が終わった約40日後に、沖縄独自の教科書を編集するために、国語学者の仲宗根政善らを集めて、「読み方」や「算数」の教科書編集を命じました。沖縄独自の教科書は、戦前の軍国主義的教材や日本的教材を使用してはならないとする米軍の教科書編集の方針に基づいたものです。それは、「人類愛」による「新沖縄建設」を積極的にすすめるため、「進取と高い理想」を与える新教材として編集されました。その中に沖縄の人びとを救うため中国から甘藷を入手し、沖縄に広めた野國總管をたたえる文章が掲載されたのです。戦後最初の教科書の中に、戦後復興期の「新沖縄建設の精神」を築くために「高い理想」をかかげ、新たなことに積極的に取り組んだ野國總管の精神が高く評価され、おさめられたのです。そのことは、戦後沖縄の建設が、野國總管の精神から学ぶことから始まったことを示すものといえましょう。

読谷村親志にある「野國總管の碑」 読谷村喜名にある「土帝君」 清明祭では祈願が行われています。
読谷村喜名のメーヌマーチューにある「野國總管之碑 招魂」の石碑

野國總管甘藷伝来350 周年奉祝
 もう一つは、「野國總管甘藷伝来350 周年奉祝」によって、野國總管の功績が産業復興の観点から新たに顕彰されたことです。同祝賀会は、戦後から10 年がたった1955 年に嘉手納で開催されました。その趣意書には、当時の状況について次のように記されています。

 野國總管は、戦前は産業の大恩人として世持神社に合祀されていましたが、敗戦の結果現在では、軍用地である野国海岸にお墓ばかりあるだけで、ほとんど関心なく放任の状態にあるので、あらためて「琉球産業の大恩人」として顕彰し、旧農林学校敷地内(現在の嘉手納中学校裏)に野國總管宮を建設して永久に祀ることが、述のべられています。

 また、他の文章では、その記念事業に対して、沖縄の産業を盛もり上げる気運を高めるために、琉球政府立法院が「満場一致で可決」したことが書かれています。

 この趣意書からは、野國總管が「高い理想」をかかげて新たなことに積極的に取り組んだことが評価され、戦後沖縄の復興期における「新沖縄建設の精神」の指針として、新たに顕彰されている事実をみることができます。

 このように、野國總管は、つねに時代の節目節目で新たに取り上げられたたえられています。21 世紀を迎むかえた今日、私たちは、郷土の偉人である野國總管の遺徳やその精神から、何を学ぶことができるでしょうか。それは、私たち一人ひとりに課せられた大きな課題だといえましょう。



甘藷伝来三五〇周年祭で演じられた野國總管
日本の古い姿を残している琉球
 明治時代の中ごろまで、教育界においては、中国の歴史と関係が深く、日本の歴史と異なる特徴をもった琉球の歴史を学ぶことは否定されていました。その後、大正時代に入ると、琉球の歴史文化は、日本の古い姿を残していると高く評価されるようになりました。さらに昭和10年代後半になり、戦争が激しくなると、沖縄の村々にある御嶽が、日本の古い宗教の形を残している聖地として位置づけられ、「一村一社」として神社に統合されて、御嶽に鳥居をたてる動きが起こります。