時代の大きなうねり
1 野國總管が生きた時代
ゆれ動くアジアの中の琉球
 野國總管が生きた時代は、史料や歴史の本からも、16 世紀の後半から17 世紀の前半だということがわかっています。そのころの沖縄は、「琉球王国」という沖縄の人びと自身でつくりあげた国を形成し、日本とは違う道を歩んでいました。

沖縄の歴史の上では「古琉球」(薩摩侵攻以前の琉球)から「近世琉球」へと変わっ 少し視野を広げて東アジアの世界に目をむけると、大国であった中国に、まわりの国々が従うという、アジア地域の新しい秩序ができあがり、琉球もその東アジア秩序の中の一員となっていた時代でした。

 このような時代に、薩摩藩(現在の鹿児島県)が琉球に侵攻するという一大事件が起こり、琉球王国としての基盤や行政組織であった王府の制度をゆるがすことになります。

 野國總管が生きた時代をたどる前に、少しだけ時代をさかのぼって、中国をとりまく東アジアや東南アジアの国々の動きを、見ていくことにします。なぜなら、琉球と中国の結びつきが強まっていくなかで、甘藷の伝来がなされるからです。

 当時、東アジアや東南アジアの国々の中で、もっともすすんだ文明をもち、力を誇っていたのは中国でした。その中国を統一した朱元璋は、明の国を建設します。1368 年のことです。

 明国を建設した朱元璋こと洪武帝は、統一した中国を、より強く結びつけゆるぎない大国にするため、アジアの近隣の国々に使者を送り、中国に従うように求めました。それと同時に、中国との自由な貿易を禁止し、中国人が海外に出かけることを禁止する「海禁策」を命じました。
中国との新しい関係
 中国で明国が建設されたころ、琉球は三つの大きな勢力が競って、対抗するという三山時代(中山・山南・山北)をむかえていました。その中で、もっとも大きな力を誇っていたのが中山王・察度です。

 察度は明国の求めに応じ、使者を中国につかわして、冊封をうけます。1372 年のことです。後を追うように山南の覇者・承察度、山北の覇者・怕尼芝も中国の求めにこたえて、使者をつかわします。これにより、琉球もほかのアジアの国々と同じように、中国と「朝貢・冊封関係」を結び、中国を中心としたアジア社会の仲間入いりすることになりました。

 中国の求めに応じるということは、中国皇帝にあいさつ文と貢ものをささげ、忠誠を誓うことで「朝貢」(進貢ともいう)といいます。そして、中国皇帝に朝貢するためあいさつ文と貢ぎものを運ぶ船のことを「進貢船」といいます。逆に朝貢してくる外国に対して、中国皇帝より国王であることを認めてもらうのを、「冊封」をうけるといいます。

 また、中国皇帝からはその返礼として、貢ぎものの倍以上の商品が琉がわ球側に贈おくられます。そればかりではありません。進貢船には、貢ぎもののほかに、たくさんの琉球の特産品などが積つみこまれます。これらの特産品を中国で売りさばき、そのお金で中国の珍しい品物や高価な商品を買うことができました。進貢船を派遣することで、琉球は大きな利益をあげることができたのです。こうした進貢による中国との交易を「進貢貿易」(朝貢貿易ともいう)といいます。

王城として400年の歴史をきざんだ「首里城(正殿)」
山南の拠点となった「南山グスク」
山北の拠点となった「今帰仁グスク」
 中国との進貢貿易で、もっとも大きな利益をあげたのが、いち早く、中国の求めに応じた中山でした。中山は、中国との進貢貿易を足がかりにして、日本をふくめた東アジアや東南アジアの国々との交易にも、積極的にのり出します。中山の勢力は、いよいよ強くなり、山南や山北の力を大きくしのぐことになりました。  
 15 世紀の初め、山北を攻せめ落とし(1416 年)、ついで山南を滅ほろぼした(1429 年)中山は、二つの勢力を支配下におさめ、琉球に初めての統一した権力をうちたてました。これが琉球王国の誕生です。

 そのころになると、琉球は、明国との進貢貿易だけでなく、日本をはじめとして東南アジアの国々との間でも、盛んに交易を展開します。進貢貿易によって、中国で手に入れた商品を日本や東南アジアで売りさばき、中国皇帝へささげる貢ものを日本や東南アジアで手に入れます。そのため、琉球には外国の珍しい品々や高価な商品が集まるようになります。それと同時に、中国や日本の商品が、琉球を経由して東南アジアの国々へ渡るようになり、東南アジアの国々の商品もまた、琉球を経由して中国や日本に渡たるようになっていきます。進貢貿易にくわえて、東アジアと
東南アジアをつなぐ中継貿易の拠点となった琉球は、14 世紀から16 世紀中期にかけて「大交易時代」をむかえることになるのです。
冊封使行列絵巻(部分) 冊封使の琉球への派はけん遣は20 数回にもおよんでいます。
(沖縄県立博物館蔵)
進貢船の旅
中国への進貢船は、通常本船と護送船の2艘からなり、使節団や船員をふくめて、200 人前後の人びとが乗りこんでいました。使節団は、琉球国王から辞令をうけた王府の役人が主体となり、航海にたけた技術者や貿易業務をうけおった久米村の出身者によって組織されていました。その当時の久米村は、中国南部から沖縄に移り住んだ人びとが居住していたところです。彼らは、はじめのうちは船大工や航海技術の指導にあたっていましたが、そのうち、外国ととりかわす文書の作成などにたずさわるようになり、琉球の海外交易にはなくてはならない、貴重な人材となっていました。

 那覇港を出港した琉球の進貢船は、慶良間諸島を通過して、まず久米島に寄より、順風にのって中国南部の福建省の港をめざします。冬の季節風を利用して、約7~15 日間の船旅になります。琉球の進貢船が入港する港は指してい定されており、はじめのころは福建省の泉州でしたが、1472 年に福州に移ります。福州には使節団が宿泊するための施設として、琉球館が設置されていました。

 琉球館に滞在した後、正使や副使・通事(通訳)・役人など約20 人の使節団が、中国皇帝に朝貢するため、首都の北ペキン京をめざして旅だ立ちます。福建省の琉球館から北京まで約3000kmの道のりを、陸路で片道およそ2カ月もかける長旅となります。つらくて厳しい旅であったようで、とちゅうで命を落とす人もいたようです。

 一方、琉球館に残って、るすをあずかる乗組員は、琉球から貢ぎものといっしょに進貢船に積みこんできた商品を売りさばきます。そして売りさばいて得えたお金で、中国商品を買い求もとめるわけです。もちろん、商品を売買するだけではありません。長期にわたる滞在中に、発展した中国文明とじかに接することによって、乗組員たちは見聞を深めることになるのです。

 進貢船の乗組員のひとりであった野國總管も、使節団一行の帰りを待まちながら、福州で活動する中で、甘藷に出会うことになったのだと思います。

万国津梁の鐘
14 ~ 15 世紀の琉球王国が海外貿易を盛んに行っていたことを示すものに、かつて首里城正殿にかけられていた「万国津梁の鐘」があります。「万国」とは「多くの国」を示し、「津梁」とは「かけ橋」を意味します。その鐘にきざまれた銘文には、北は朝鮮・日本、西は中国、南は東南アジア諸国の間の中間に位置する琉球が、それらの国々のかけ橋となって貴重な産物を交易し、国中も豊かになっていることが記しるされています。