沖縄甘藷の栽培・普及に尽した人びと
松永高元
 松永高元は、鹿児島県鹿児島市上之園町出身で、1892(明治25)年に生まれ、1965(昭和40)年に亡くなっています。1914(大正3)年、鹿児島高等農林学校農学科を卒業し、1916 年5月に沖縄県糖業試験場の技手(技術者)として赴任し、1945 年まで甘藷の品種改良に力を尽します。

 1925 年から31 年までは場長を努め、その間に、沖縄1号から7号、1934 年には沖縄100 号から105 号の新品種を育成しています。その中でも、沖縄100 号はすばらしい品種として高い評価をうけています。沖縄100 号は、1928(昭和3)年の交配によって育成したものです。その年の交配の組み合わせの数は、約61組で、交配の花の数は22524 花だったとされています。そのうち七福という品種を母とし、潮州という品種を父として交配したものが714 花でした。その花からできた数百種あまりの種を育成品種として利用したのです。

 1933 年までの5ヵ年間、優秀なものを選び抜いていくという根気のいる選択試験をくり返し行いました。その中から六つの品種が選び出され、さらにその中の一つを収穫量も多く、味もよいということで常食用として認定します。そして、翌年の5月12 日には農林省で承認され、沖縄100 号という名まえがつけられ、沖縄県の奨励品種として決定されたのです。やがて、優秀な品種として全国的に知られるようになり、栽培されることになります。中国にも優秀な品種として導入され、栽培されることになりました。

 松永高元は「昭和の野國總管」とたたえられるほど、甘藷の栽培技術、品種改良に大きな功績を残した人です。

我謝栄彦
 1884(明治17)年に、中城間切伊舎堂(現在の中城村登又)に生まれた我謝栄彦は、教育者として、その執筆活動を通して沖縄の農業の発展に大きな功績を残した人として知られています。

 1912(明治45)年に中頭農学校を卒業した栄彦は、1919 年に沖縄県立農林学校の教諭となり、教育者としてのスタートを切っています。そして、その在職中には、早くも『沖縄県用農業参考書』という本を著しています。


さいたま玉のサツマイモ資料館に展示されている「沖縄百号」
 1943(昭和18)年には、農事試験場普天間試験地の主任技師となり、戦後には与儀農事試験場の場長として活躍します。以来、執筆活動にも力を入れ、数々の農業用教科書、研究書を世に出しています。

 さとうきびや甘藷の研究にも大きな功績を残しています。

 1939(昭和14)年2月8日付の『大阪毎日新聞』(鹿児島・沖縄県版)の紙上に「従来の品種に優る、甘蔗農林1号発見、我謝栄彦氏の努力で」という見出しの記事が掲載されています。その記事には「昭和6年に父本2715、母本2714 号を交配して完成したものである。この新品種は非常に期待されている」とあり、栄彦によって発見されたさとうきびの新品種に対する期待が表明されています。

 前にも紹介しました「又吉」と「暗川」、「比謝川1号」と「比謝川2号」という甘藷の品種は栄彦が育成したものです。これらの品種は、植え付けから3ヵ月で収穫できるとあって、戦時中あるいは戦後の食糧難時代に広く栽培されました。

農林登録品種
 農林登録品種というのは、農林省という政府の機関に属している試験機関でつくられた甘藷の品種に番号をつけて登録したものです。沖縄県でつくられた新しい品種も、国から交付される補助金を利用してつくり出されたものは、農林登録品種になるというわけです。もちろんのことですが、登録されるためには、優秀な品種であることが条件になります。

 いも焼酎の原料に使われる「コガネセンガン」(農林31 号)や焼きいもや川越のいもセンベイの原料に使われる「ベニアズマ」(農林36 号)なども農林登録品種になっています。